2012年11月6日火曜日

黒澤明監督の『七人の侍』の時代考証のおかしな点


 黒澤明監督の『七人(しちにん)の侍(さむらい)』は相当に入念に脚本が練(ね)り上げられている。

 ところが、時代考証(じだいこうしょう)で一箇所(いっかしょ)、間違っている。

 当時は、兵農分離(へいのうぶんり)が進んでいなかったのである。

 三船敏郎(みふねとしろう)演ずる菊千代(きくちよ)は百姓の出(で)である。大太刀(おおだち)を肩に担(かつ)いで浪人のようにふるまっているが、志村喬(しむらたかし)演ずる島田勘兵衛(しまだかんべえ)に、即座(そくざ)に侍ではないと見抜(みぬ)かれる。
 のちに、侍だと思われたいがために、他所(よそ)の家系図を盗み出し、勘兵衛に自慢して見せるが、菊千代は漢字が読めなかった。

「うーむ、この菊千代というのがお前か」
「左様(さよう)で御座(ござ)る」
「天正(てんしょう)2年甲戌(きのえねいぬ)2月17日生まれ。あはっはっはっは、お主(ぬし)、13歳には見えんが。よく聴け。この菊千代と申す者がお主に間違いなければ、お主は当年とって13歳。……この系図、どこで盗んだ?」

 天正2年は1574年である。当年とって13歳とは、数え年で13歳ということであって、満年齢ではない。1574年2月17日に生まれた時点で1歳である。そこに12年を足すと、1586年となる。
 したがって、『七人の侍』は1586年の話となる。

 ところが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が刀狩令(かたながりれい)を発布(はっぷ)し、兵農分離を推し進めたのは、1588年(天正16年)である。
 刀狩令以前では、百姓も自(みずか)らの身を守るために武装していた。だから、侍と百姓の身分が明確に分離していたわけではなかった。
 武田信玄と上杉謙信が川中島で何度も合戦をしていたが、春先になると、田植えがあるので、休戦協定を結んで、地元に戻って、田植えに精(せい)を出していた。初期の頃は、合戦に参加する者は、謂(い)わば兼業農家であったのである。

 

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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