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2014年6月5日木曜日

抹茶を探していたら、「紀伊の昔」「紀之昔」「紀之司」という銘柄(めいがら)があった。

正式に茶道をしているわけではなく、ただひとりで点(た)てたり、練(ね)ったりして抹茶(まっちゃ)をいただいているにすぎない。

ウェブで抹茶を探していたら、「紀伊の昔」「紀之昔」「紀之司」という銘柄(めいがら)があった。

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裏千家先代御家元 鵬雲斎宗匠より拝銘
紀伊の昔(きいのむかし)

表千家先代御家元即中斎宗匠より拝銘
紀之昔(きのむかし)

表千家先代御家元即中斎宗匠より拝銘
紀之司(きのつかさ)
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茶の湯のことは知らないから、不思議に思った。

調べたら、表千家4代有江岑宗佐(えみねそうさ)が紀州藩初代藩主徳川頼宣(よりのぶ)に招かれ、明治に至るまで表千家の歴代家元は紀州徳川家の茶頭(さどう)として仕えていた。二百石の禄(ろく)を受けていたという。

和歌山県出身だけれども、そんなことは知らなかった。

玉林園のウェブサイト

日本教職員組合(日教組)の強い地域では、人助けとなるものは別だが、郷土に誇りが持てる教育は、なるべく排除する傾向があったような気がする。

世界で初めて全身麻酔(ますい)を成功させた華岡青洲(はなおかせいしゅう)や、地震による津波から海岸近くの村人を救うために、高台(たかだい)に干していた稲むらに火をつけ、驚いた村人が高台にやって来て、その結果、津波の被害から逃(のが)れるようにした「稲むらの火」という物語のモデルとなった濱口儀兵衛(はまぐちぎへい)の話くらいしか教わっていない。

紀州藩に表千家が仕えていたことも、また、京都三十六間堂の通し矢に、「大矢数(おおやかず)」という一昼夜でどれだけ射通(いとお)せるかを競うものがあるが、その記録保持者、つまり通し矢の天下一は、紀州藩の和佐範遠(わさのりとお)であるということも、教わらなかった。

どうやら、庶民(しょみん)にとって手が出せない分野に関しては、教えないという方針が、日教組や日本共産党員の教員にはあったとしか思えない。




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2014年4月27日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男(その4)

坂井雅夫少尉(階級は終戦時)は、昭和11年(1936年)11月27日に第1期技術生徒のひとりとして卒業した。

当時、成績のよい者は海外に、それほどでもないものは内地勤務となった。

坂井雅夫は、第1志望の飛行第16連隊付となった。飛行第16連隊は満洲牡丹江(まんしゅうぼたんこう)*1に昭和10年(1935年)12月から拠点を構えていた。
*1:牡丹江=現在の黒龍江省牡丹江市(こくりゅうこうしょうぼたんこうし)である。

海外勤務で、第1志望どおりの任地(にんち)ということから、在籍中の成績がよかったであろうことが窺(うかが)われる。

飛行第16連隊を第1志望にしたのは、連隊長が、のちに陸軍航空本部長となる寺本熊市大佐であったからだろう。寺本熊市は、和歌山県伊都郡隅田町(いとぐんすだちょう)の出身で、坂井雅夫少尉は隣の橋本町(はしもとちょう)出身だからだ。

満洲に出発する前に、橋本町に帰省(きせい)した。当時の郷土新聞(きょうどしんぶん)につぎのような記事が掲載された。

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郷党(きょうとう)に嘱望(しょくぼう)されて空軍最前線へ坂井雅夫君出征(しゅっせい)

既報(きほう)陸軍航空技術学校第一期技術生は本県では二名だが、その一人橋本町出身の坂井雅夫君は優秀な成績で卒業し、伍長勤務上等兵(ごちょうきんむじょうとうへい)の肩章(けんしょう)も新しくこのほど実家に帰省(きせい)したが、同君は伊都中学四年在学中の昭和九年二月採用され……殊(こと)に橋本では航空界に送る最初の鳥人として……満ソ国境◯◯◯の寺本部隊長所属として非常時日本国防空軍の最前線に出征するもので……歓呼(かんこ)を浴びて盛んなものであった……

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「満ソ国境◯◯◯」の◯◯◯は、牡丹江のことだろうが、軍事機密ということで、伏せ字(ふせじ)になっているらしい。

日教組(日本教職員組合)による反日自虐史観教育を受けた者からすると、初めて上記の記事を目にしたときには、信じられなかった。

満洲時代の話にはいろいろとおもしろいものがある。

まず、坂井雅夫は飛行第16連隊軽爆班第3中隊に配属された。93式双軽爆撃機の機付(きつき)*2となり、同時に、機上射手も務めた。訓練や戦闘では機上射手として機銃掃射(きじゅうそうしゃ)などを行ない、飛行場に戻れば、即座に整備をしなければならなかった。
*2:機付=特定の機体の整備担当を示す。

機上射手としての初陣(ういじん)は昭和13年(1938年)の夏だった。松花江(しょうかこう)*3の畔(ほとり)にある佳木斯(ジャムス)*4から東へ200キロメートルのところに位置する、富錦(ふきん)*4の南方の湿地帯に散在する小島を拠点とするゲリラ討伐に出動した。
*3:松花江=アムール川(黒龍江)最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(ちょうはくさん)(朝鮮語名:白頭山(はくとうさん))山頂火口のカルデラ湖(天池)から発する。
*4:佳木斯(ジャムス)=現在の支那大陸にある社会主義国家の最東部に位置する都市。
*5:富錦=黒龍江省東北部、松花江下流南岸の三江平原の中腹に位置する。佳木斯(ジャムス)より更に東に位置する。現在は、松花江下流沿岸の内陸河港と農地開墾の基地である。

満洲のような極寒地(ごっかんち)での整備はたいへんだったらしい。

気化器ドレンのプラグを軽く締(し)めたら、首部がポロリと折れたりして、内地(ないち)では考えられないことがよく起きたという。

酷寒地なので、炭火おこし当番は起床2時間前に起き、5俵(ごひょう)または6俵(ろっぴょう)の木炭に火を熾(おこ)し、事前に暖かくしておかなければならないが、坂井雅夫は2回、一酸化炭素中毒になった。

牡丹江のカッフェーで痛飲して、徒歩帰営の時刻が過ぎてしまい、中隊長に叱責(しっせき)され、翌日の射撃成績が散々で、昨夜の泥酔が原因だと怒った中隊長によって、零下30度の中、3回連続して、風防のない機上射撃をさせられ、顔が凍傷(とうしょう)になった。応急処置により、大事にはいたらなかったが、両眼のまぶたは黒枠のかさぶたになり、それがむけて赤べたになり、その繰り返しが1か月半、続いた。格好(かっこう)悪くて堪(たま)らなかったという。

兵器紛失もやっている。射撃訓練中に勢いよく銃を左に旋回(せんかい)させた瞬間に、右の扇形弾庫が落ちてしまった。着陸後、2台のトラックに分乗して、捜索(そうさく)を行なった。飛行場から5キロメートルほどの落下地点とおぼしきあたりは、梨花(りか)が咲き乱れており、紛失した坂井雅夫は必死で扇形弾庫を捜していたが、本人以外は、よいお花見だと大はしゃぎとなり、梨花の大枝を持ち帰って、中隊玄関の両脇に飾りつけた。支那事変の最中(さなか)にこんなことをやっていたんだぜ。

密閉風防(みっぺいふうぼう)はなく、後方銃座勤務(こうほうじゅうざきんむ)は寒さとの闘いであった。電熱服(でんねつふく)を着るのだが、断線すると凍傷になる。ショートして腰に火傷(やけど)を負ったことがあった。

着陸直後に整備を始めなければならないので、機上で凍(こお)りついた弁当を食べたこともある。

関東軍大演習時に、尾輪(びりん)がパンクしたが、予備がなかった。チューブのかわりに布を固く詰め、水を含ませると、凍りつき、即席のソリッド尾輪となり、無事、演習を終えた。まあ、この人は、部品がなければ、日用品で戦闘機や爆撃機を修理するような人だからなあ。

いろいろと苦労したようだが、本人によれば、のちに機関係(きかんがかり)として担当した三式戦闘機「飛燕」で味わった精神的苦悩に較べれば、まだましだったと述べている。「飛燕」のエンジンを「ガラスの心臓」と揶揄(やゆ)する人がいるくらいだから、よっぽどだったんだろう。

一方で、たのしいこともあったらしい。

夏には、飛行演習後に、水泳兼魚獲りをしたが、これがダイナマイト漁*6だった。上流でダイナマイトを投入し、下流で二列横隊で待つ兵士たちが、気絶したり、死んだりして浮き上がった魚をつぎからつぎへと手づかみで岸へと投げ上げる。2回やると、俵(たわら)にして3杯(さんばい)くらいは獲(と)れたという。
*6:ダイナマイト漁は生態系に影響を与えるということで、今の日本では禁止されている。

美しいロシア娘に惹(ひ)かれて、喫茶兼食品店に入り、生まれて初めてソーセージを目にするが、何なのかわからない。食べ物だとわかり、註文(ちゅうもん)したのはいいが、一口食べて、どうにも口にあわず、残した。ロシアのソーセージがどれほど不味(まず)いのか、気になるところだが、昭和10年代前半の日本人には、馴染(なじ)みのない味だったということにすぎないかもしれない。

また、演習の際に足を運んだ喫茶店の可愛い娘から手紙が届き、もう一度、吉林(きつりん)に行きたいと胸をわくわくさせたこともあった。

坂井雅夫は整備兵としてすこぶる優秀だったのだろう。彼が担当した93式双軽爆撃機第89号機は、中隊長機や編隊長機となることが多かった。

当時の工作技術と整備技術では100時間で発動機(はつどうき)交換*7となる。彼の整備した機体は、4回の発動機交換を経(へ)て、年間400時間無事故だった。
*7:発動機はエンジンのこと。

そのことで表彰状を受け取っている。

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表彰状 

牡丹江松岡部隊八木隊陸軍航空兵軍曹 坂井雅夫 


右之者(みぎのもの)昭和十二年三月七日以降九三双軽第八十九号機機長トシテ同機ノ整備ニ専念シ累次(るいじ)ノ猛戦闘討匪(もうせんとうとうひ)ハ勿論(もちろん)、教育訓練ニ支障ナク全機能ヲ発揮(はっき)シ累計(るいけい)四百時間ニ至(いた)レリ。此ノ間四回ニ亘(わた)リ発動機ノ交換ヲナシタルモ、常ニ好調ナル成績ヲ持続シアリ。是(これ)右(みぎ)整備員ノ努力ノ賜(たまもの)タル事ヲ立証ス。仍(よっ)て茲(ここ)ニ之(これ)ヲ表彰ス。 


昭和十三年四月二日 牡丹江松岡部隊八木隊長 八木斌

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軽爆撃機とはいえ、400時間もの年間飛行時間にして、まったく故障しなかったのは、当時としては、そして、現在でも、驚異的であろう。今まで知らべたところ、これを超える記録が見つからないので、おそらくは、帝国陸軍航空隊の最高記録だろう。

やるな、93式双軽爆撃機第89号機(←そっちじゃないだろ)。

93式双発軽爆撃機










帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1


日本陸軍試作機物語 陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

2014年4月10日木曜日

「真田まつり」に関して笑ったこと

真田幸村(さなだゆきむら)の本当の名前は真田信繁(のぶしげ)である。講談や小説などで、真田幸村として有名になり、それが定着した。

真田幸村は、関ヶ原の戦いで石田三成(いしだみつなり)率(ひき)いる西軍、つまり豊臣方に、父とともに加勢(かせい)した。

幸村の兄は東軍に与(くみ)した。

親子で西軍と東軍にわかれるというのは怪訝(けげん)に思うかもしれないが、どちらが勝っても、真田家が残るようにとの配慮であった。

敗軍の将(しょう)ならば、切腹となるところだが、幸村は、地方への配流(はいりゅう)を命ぜられるにとどまった。

当初、和歌山県にある高野山(こうやさん)への配流を命ぜられたが、高野山は寒すぎるので勘弁(かんべん)してくださいと泣きを入れ、高野山の麓(ふもと)にある現在の和歌山県伊都郡(いとぐん)九度山町(くどやまちょう)への配流にしてもらった。

若い頃の私は、真田幸村ってのは、見事な「根性なし」だと思った。

しかしながら、最近になって、いつでも大坂城(おおさかじょう)[註:昔は「大坂城」と書いた]に迅速(じんそく)に出陣できるように、そういう演技をして、少しでも麓(ふもと)にある九度山に配流されるようにしたのかもしれないと思うようになった。

方広寺の鐘(かね)に「国家安康(こっかあんこう)」の文字があることから、徳川家康が豊臣氏に難癖(なんくせ)をつけた。「家康」の文字を分断(ぶんだん)するものだとした。

幸村は、九度山を脱出して、大坂城に入城することとなる。

このときのエピソードで、つぎのものがある。

大坂城に向けて出発することになった。

九度山町や近隣にある現在の橋本市の庄屋(しょうや=わかりやすくいうと、村長さんみたいなもの)を集め、日頃のお礼に酒盛(さかも)りをしたいと申し出た。

現在の和歌山県橋本市と、大阪府との県境(けんざかい)、あるいは府境(ふざかい)には、紀見峠(きみとうげ)というところがある。紀見峠というは、紀伊国(きいのくに)が見える峠という意味である。

真田幸村が紀見峠を通過することがあれば、即座(そくざ)に徳川方(とくがわがた)に通報しなければならなかった。

そこで真田幸村は酒宴(しゅえん)を催(もよお)し、呼ばれた庄屋たちは酔っ払って、寝てしまった。いや、じつは、寝てしまったふりをしただけだった。幸村が大坂城に向かうのだと庄屋たちは判断していた。

そうすると、真田幸村が紀見峠を通過したことを徳川方に報告しなかったとしても、「いやはや、酔っ払って寝ていましたから」と言い訳ができる。

そうした阿吽(あうん)の呼吸で、今の橋本市の庄屋たちは真田幸村の大坂城入城を支援(しえん)した。

この話を読んだとき、中学校や高等学校の同級生で、所謂(いわゆる)、庄屋筋(しょうやすじ=庄屋の家柄(いえがら))の連中の先祖は、これを体験したのかと思うと、ちょっと羨(うらや)ましかったな。

和歌山県九度山町には、女人高野(にょにんこうや)と呼ばれる慈尊院(じそんいん)という寺と、真田幸村がいた真田庵(さなだあん)くらいしかない。

高野山は女人禁制(にょにんきんせい)という建前(たてまえ)になっていた。だから、女性は慈尊院(じそんいん)という九度山にある寺までしか行けなかった(ということになっている)。

実際は、豊臣秀吉が高野山焼き討ちを実施した際に、大量の女性と子どもがいたから、女人禁制は嘘(うそ)だった。

高野山の坊主(ぼうず)は、今でも、生臭坊主(なまぐさぼうず)ばかりだからな。

高野山焼き討ちのときの豊臣秀吉の決断が素晴らしい。

これほどまでにいる女(おんな)子どもをどうしましょうかと部下が秀吉に訊(たず)ねた。(女人禁制の)高野山に女(おんな)子どもはいないはずだから、いないはずの者を殺すわけにはいかんだろうと秀吉は言った。

九度山という地名は、慈尊院(じそんいん)に空海(くうかい)の母親がいて、空海はひと月に9度、母親に逢(あ)いに来たという故事(こじ)に由来(ゆらい)する。

空海がひと月に9度、慈尊院(じそんいん)にいる母親に逢(あ)いに来たということから「九度山」という地名になった。

慈尊院(じそんいん)と真田幸村くらいしか誇れるものがない九度山は、大東亜戦争の前から、ずっと「真田まつり」をやっていた。

しかしながら、真田氏の居城(きょじょう)である上田城は、長野県上田市にあり、どう考えても、こっちが「本家(ほんけ)」である。

ところが、九度山は、戦前から「真田まつり」をやっていた。長野県上田市が、真田まつりを35年くらい前に始めたときには、すでに和歌山県九度山町が「真田まつり」を戦前からずっとやっていたから、「上田真田まつり」とした。

本家が分家(ぶんけ)に遠慮(えんりょ)している状況は、なんだかおもしろい。いや、分家というよりは、よく考えると、九度山は流刑地(るけいち)にすぎないから、分家とすらいえない。

そんな九度山が、堂々と「真田まつり」をやりつづけているというのは、なんだか不思議な気がする。

2014年4月7日月曜日

和歌山県が主催する戦没者追悼式が2013年に初めておこなわれた。

和歌山県が主催する戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)は2013年に初めて行なわれた。

それまでは遺族連合会が独自に護国神社(ごこくじんじゃ)で行なっていた。

また、和歌山県橋本市主催の戦没者追悼式も2010年あたりからのようである。

少なくとも1980年あたりまでは、地方自治体主催の戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)はなかったと記憶する。

一方で、地元出身の軍人や部隊の話を積極的にする地方もある。

これこれという人は、この戦線でこんな活躍をしたという話を聞く。

そうした地方の生徒の学力は高くなる傾向にある。

日教組や全教が君臨(くんりん)していないからである。

どうも、日教組や全教は、「人間は平等だ」と唱えるけれども、平等にするのに、全員の学力を下げることによって、平等にしようとしているように感じる。

2014年4月6日日曜日

和歌山県庁が配信しているらしい和歌山紹介の動画の再生数が少なすぎて笑った。

和歌山県庁が配信しているらしい和歌山紹介の動画の再生数が少なすぎて笑った。

配信してから5年以上経(た)っているのに、フランス語版と英語版は、100回の再生にすらなっていない。

ほかの言語だと、もう少し再生数があるのだけれども、それでも、1000回の再生には届いていない。

この手の広報活動は、直近(ちょっきん)では成果がでなくても、地道にやっていくものなのだろうから、しょうがないのだろう。





2014年2月2日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その3

和歌山県伊都郡橋本町出身で、陸軍少年航空兵第一期技術生徒である坂井雅夫は、満洲(まんしゅう)勤務後は、内地での勤務となった。

陸軍航空隊の試作機の整備兵としての道を歩んだ。陸軍飛行実験部を経(へ)て、陸軍航空審査部に勤務した。

陸軍航空審査部(陸軍飛行実験部)で担当した機種は以下のとおり。

キ48 99式双発軽爆撃機

キ60

キ61 三式戦闘機「飛燕」

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その4

1/72 川崎キ48九九式双発軽爆撃機 2型乙 飛行第75戦隊
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2013年12月19日木曜日

和歌山県橋本市も「恋するフォーチュン=クッキー」の動画をアップしていた。

ついに和歌山県橋本市も「恋するフォーチュン=クッキー」の動画をアップしていた。

保育園の子どもはかわええよなあ。

ひねキングは、知っている人がいるのだろうか? 

卵を産まなくなった鶏の肉をひね肉と呼ぶ。卵を産むのに必要な力を使わなくなるから、喰(く)ったことはないけど、その肉はうまいらしい。

それをご当地キャラにした。

それ以外にも、ご当地キャラらしきものがあるが、まったくわからない。

2つ目の動画は、ボーイスカウト橋本第2団のものである。ボーイスカウトなのに、女の子が前面に出ている。でも、ベレー帽はかっこいいぞ。

市長の木下善之さん以外は、知らない人ばかりで、もう故郷ではないようだ。





2013年12月16日月曜日

東京生まれの人は「にゅうめん(煮麺)」を食べない。

にゅうめんとは、そうめん(素麺)を茹でたものである。元来は「煮麺」であり、それが変化したものである。

東京生まれの人は、親が関西出身でもないかぎり、にゅうめんを知らない。知っていたとしても、たとえば、風邪を引いたときに、食べたことがあるくらいだというのがせいぜいである。

東京は蕎麦(そば)が主流なので、にゅうめんは食べない。にゅうめんを食べるのは、素麺の産地周辺に限られるのだろう。

ところが、東京生まれの人には馴染(なじ)みがないのに、にゅうめんがフリーズ=ドライ食品で売られていた。

びっくりした。

コンビニエンス=ストアは、客に飽(あ)きられないようにするために、新製品をつぎからつぎへと販売する。

ベトナムの麺類であるフォーなども売られている。タイのトム=ヤム風味のカップ入りの春雨(はるさめ)も売られている。

ネタが切れて、関東以北を対象に、フリーズ=ドライのにゅうめんもコンビニエンス=ストアの店頭で販売するようになったのだろう。

ベトナムのフォーなどと同じ扱いといえる。

ということは、関東でにゅうめんを拵(こしら)えて食べるのは、エスニック料理を食べるようなものということだろう。

ちょっとうれしいかな。

だれも買わないだろうが、うちの近所のコンビニエンス=ストアで売っていたものを貼りつけておこう。私の感覚では、にゅうめんはフリーズ=ドライで食べるものとは思えないのだが。



2013年12月14日土曜日

英国人にはフレンドfriend(友だち)がいないが、すると、自分の恥ずかしい過去を思い出した。

英国人にはフレンドfriend(友だち)があまりいない。3人くらいしかいない場合が多い。

それ以外では、同僚colleague、知り合いacquaintance、近所の人neighbo(u)r、同級生classmateなどを使うが、なんだか、印象の悪い区別をしているように感じるらしい。

そこで、英国人、また、イギリス英語の影響を強く受けているオーストラリア人も、friendの代わりに、mate(相棒(あいぼう))をよく使う。

一方、アメリカ人にはフレンドが100人くらいいるような気がする。

ところで、私の出身地では、「友だち」「友人」ということばをさほど使わない。

なにかと「ツレ(連れ)」を使う。

友人だろうが、知人だろうが、同級生だろうが、たとえば、夏祭りで、ばったり出くわして、二言三言(ふたことみこと)、ことばを交わすと、一緒にいる人物が「今の人、誰(だれ)?」と訊(き)くと、なんでもかんでも「うちのツレや」と言うことが多い。

中学校に進学したとき、担任の教師が友人・知人関係を調べようとして、アンケート調査で「友人の名前を記入してください」という質問を載(の)せた。

方言と共通語(標準語)の違いが私には分かっていなかった。

「ツレはおるけど、友だちはいません」と記入した。

ウケるつもりはなかったが、担任にウケたようだった。



2013年8月29日木曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その2

坂井雅夫が担当したキ61[三式戦闘機「飛燕(ひえん)」]は高性能ではあったが、厄介(やっかい)な代物(しろもの)であった。

日本初の本格的な液冷式エンジンを備えた量産型の戦闘機だった。発動機(はつどうき=エンジン)は、ドイツの高性能発動機DB601をライセンス生産したものであった。「ハ40」というエンジンだった。しかし、高性能エンジンを製作する工作機械が日本にはなかった。1000分の3ミリメートルの工作精度がなかったのである。

さらには、ニッケルを使用材料から外すという命令があり、部品の強度が低下した。クランクシャフトが80時間ちょうどで折れたことがあり、信じられなかったという証言がある。

『翼をさゝえて』という陸軍少年航空兵第一期技術生徒による回想録集に掲載された坂井雅夫の回想によれば、「終戦まで苦心させられた忘れられない機種だった」と述べている。

坂井雅夫は、「整備の神様」と呼ばれた刈谷正意(かりやまさい)大尉とともに陸軍少年航空兵第一期技術生徒の出身であり、また、刈谷正意大尉と同様に、陸海軍航空部隊の精鋭を集めた陸軍航空審査部の整備隊に所属していた。刈谷正意は、『日本陸軍試作機物語』という著書がある。このふたりは、べらぼうにすごい整備兵だったようである。

1943年7月に、帝都防衛のための飛行第244戦隊にキ61三式戦闘機「飛燕」が制式化された。しかし、当時の日本の工業力を遥(はる)かに上回る性能を目指した「飛燕」は、並みの整備兵の手に負えるものではなかった。「ハ40」エンジンはなにかと壊れた。

刈谷正意大尉は、このときすでに、二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)「鍾馗(しょうき)」の整備の方法を整備隊に指導して、液冷エンジンとちがって、多少は整備しやすい空冷エンジンとはいえ、戦時稼働率100%という驚異(きょうい)の数字を叩(たた)きだしている。現在、世界最高と言われる航空自衛隊の整備兵が整備していても、稼働率が90%なのに、である。

キ61三式戦闘機「飛燕」の整備に難渋(なんじゅう)した飛行第244戦隊が刈谷正意になんとかしてくれと相談した。刈谷正意は、自分は二単[にたん=二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)「鍾馗(しょうき)」]が専門だから適切な指導はできないということで、陸軍航空審査部でキ61を担当していた坂井雅夫を推薦して送り込んだ。空冷エンジンが主流だったときに、坂井雅夫は液冷エンジンの熟達(じゅくたつ)した専門家だったからだ。

坂井雅夫は、飛行第244戦隊をはじめ、足を運べるところには赴(おもむ)いて、指導・伝習(でんしゅう)に飛び回った。その結果、飛行第244戦隊の戦時稼働率は80%になった。

坂井雅夫の回想では、「(ハ40という)国産エンジンになってからは無段変速(現在の自動車のトルクコントロールの原理)フルカン接手(つぎて)の調子不具合で性能低下が多かった」という。

「飛燕」に関する書物を読むと、帝都防衛の飛行第244戦隊での「飛燕」の稼働率が80%と異常なまでに高いのに、何故(なぜ)、ニューギニアの戦隊は稼働率が低いのかという疑問を、ある著者は抱(いだ)いている。最終的には、ニューギニアの「飛燕」は3機だけになり、その3機が敵の飛行戦隊に突っ込み、消滅した。

また、ある著者は、飛行244戦隊には、首都防衛のために、川崎航空機工業株式会社が、とくによい部品を飛行第244戦隊に供給していたのではないかとの推測を、根拠もなく、している。そうでなければ、あれほどまでに厄介(やっかい)なキ61三式戦闘機飛燕の稼働率を80%にまで上げられるはずがないというのだ。しかし、よい部品とやや問題のある部品を見分ける作業をするための時間もなければ、人材もいないのだから、それはありえないはずである。今なら、非破壊検査などによって部品の良し悪しを判別する余裕はあるのだろうけれども。

「飛燕」を取材した別の軍事ジャーナリストが飛行第244戦隊の飛燕の稼働率が異常に高いのは不思議だと質問したところ、帝国陸軍航空隊の関係者は皆、口々に言った。

「坂井君がいたからだ」

坂井雅夫は「キ61の神様」と呼ばれる男になっていた。

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1
帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その3

2013年8月22日木曜日

和歌山県に関わる日本一とその他

和歌山県に関わる日本一とそのほかのもの、たとえば、発祥(はっしょう)のものを挙(あ)げてみよう。

1)蜜柑(みかん)の生産日本一。
蜜柑の生産は愛媛県が日本一だったが、台風で蜜柑の木が打撃を受け、和歌山県が日本一になった。愛媛県は、蜜柑のようにさほど儲(もう)からないものはやめにして、台風による打撃を受けた蜜柑の木があるところにほかの果物(くだもの)を植えたようである。

2)柿の生産日本一。
 柿は関東以北では馴染(なじ)みがない果物なので、日本一だということはあまり認識されていない。和菓子では、熟した柿の甘さを超えると下品になるとされるくらいに、甘さの基準にされるほどのものなのに、関東では柿はそれほど食(しょく)されない。

3)梅の生産日本一。
日本国内の半分以上を生産している。「南高梅」による梅干しが有名である。南高梅の「南高」は和歌山県立南部高校(みなべこうこう)のことである。中学卒業が普通だった時代には、県立高校に進学するのは憧(あこが)れであり、エリートであった。そこで、改良品種の梅を「南高梅」と名づけた。ところが、大学進学率50%を超える時代となり、高校が憧れだったというのは恥ずかしいと感じるようになり、近年では、南部高校の校庭で栽培して、品種改良した梅だと、嘘を吐(つ)くようになっている。

4)八朔(はっさく)の生産日本一。
そもそも八朔を生産している農家が日本にはあまりいないのではないか。ニッチ産業だな。

5)最高級品種の山葵(わさび)の発祥の地である。
現在、最高級品種とされる山葵(わさび)は和歌山県真妻村(まづまむら)の「真妻(まづま)」であるが、これは、現在、静岡県で栽培されている。和歌山県では山葵栽培をしているのは、1軒の農家だけである。どうも、飽(あ)きっぽい県民性らしい。

6)京都にある三十三間堂の通し矢で、紀伊藩の和佐範遠(わさのりとう)(大八郎)が、24時間で、総矢数13,053本中、通し矢8,133本で天下一となっている。しかし、和歌山県では弓道はさほど盛んではない。おまけに、和佐範遠(わさのりとう)は人妻との不倫がバレて、蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。

7)合気道の創始者である植芝盛平(うえしばもりへい)は和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(にしむろぐんにしのたにむら)(現在の田辺市)出身だが、和歌山県では合気道はそれほど盛んではない。

8)篦竿(へらざお)の生産日本一。
和歌山県橋本市は全国の箆鮒(へらぶな)釣り用の篦竿(へらざお)の生産の9割程度を占める。

9)備長炭(びんちょうたん)の生産日本一。
「備長(びんちょう)」は備長炭を商いしていた和歌山県田辺の備中屋長左衛門(びっちゅうやちょうざえもん)に由来する。『びんちょうタン』というアニメまで制作している。最近では偽物(にせもの)も流通するようになったので、「紀州備長炭」と称(しょう)している。

10)蚊取り線香の原料である除虫菊(じょちゅうぎく=白花虫除菊(しろばなむしよけぎく))を最初に量産したのは和歌山県である。1885年あるいは1886年に日本に渡来し、1888年に和歌山県で量産を試(こころ)みた。しかしながら、今は、除虫菊といえば広島県因島市(いんのしまし=現・尾道市(おのみちし))である。和歌山の県民性は飽(あ)きっぽいらしい。

11)山椒(さんしょう)の生産日本一。
約8割のシェアである。山椒って、鰻丼(うなどん)と泥鰌鍋(どじょうなべ)くらいにしか使わないんじゃないかな。

12)ジャバラ(邪払)の生産日本一。
ジャバラとはミカン属の柑橘類(かんきつるい)の自然交雑種で、柚子(ゆず)のように、搾り汁(しぼりじる)を食酢(しょくす/しょくず=食用酢(しょくようず))として利用する。柚子よりも酸味が強い。和歌山県民でも知らない人が少なくない気がする。2001年にインターネットでの販売が急成長したら、他県でも栽培するようになった。

13)世界初の全身麻酔による手術をした華岡青洲は和歌山の人である。有吉佐和子が『華岡青洲の妻』という小説を発表するまでは、医療関係者以外にはまったくの無名であった。紀伊藩の第10代藩主・徳川治寶(とくがわはるとみ)に謁見(えっけん)して、士分[=武士の身分]に取り立てられ、帯刀(たいとう)を許される。藩医となるように請(こ)われるも、何度も固辞(こじ)したものの、最後には断り切れず、自宅で治療を続けるという「勝手勤(かってづとめ?)」を条件に(青洲は医療が趣味だったらしい)、小普請医師格(こぶしんいしかく)となり、ついで小普請御医師となり、最終的には奥医師格(おくいしかく)となる。「奥医師」は江戸幕府の最上位の医師に冠(かん)するものなので、幕府ではない紀伊藩の場合は「奥医師『格』」と「格」をつけなければならないようである。

14)日本最大の半島である紀伊半島の西側にある県であるが、住民は、半島に住んでいるという意識が稀薄(きはく)である。自分が半島に住んでいると思っていない人が少なくないようである。

15)1918年(大正7年)の米騒動では、現在の和歌山県橋本市から2名が死刑になった。自由民権運動と米騒動、それから戦後の自虐史観教育(じぎゃくしかんきょういく)と、和歌山は極端な方向に進む傾向があると思われる。

ほかにもいろいろとあるだろうが、今回はこのあたりで終わりにする。

追加:16)人口あたりのジャイアント=パンダの数が日本一(これはFacebookで指摘された)。
現時点で5頭のジャイアント=パンダがいる。2013年5月の時点で、和歌山県の人口は982,188人である。雄(おす)の永明(えいめい)の子どもの数はジャイアント=パンダとしては異常に多い。

2013年8月1日木曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1

坂井雅夫少尉は地上勤務者、すなわち整備兵であった。帝国陸軍少年航空兵第1期技術生徒であった。当時の地名で、和歌山県伊都郡橋本町(現在の和歌山県橋本市)の出身である。

以下、階級は面倒臭いので終戦時の階級で表記する。

坂井雅夫少尉は並(な)みの整備兵ではなかった。まず、つぎの3点を挙げておこう。

1) 満州時代かなにかで、部品がなかったので、水道管やその他、日用品を使って、戦闘機だか、爆撃機だかを飛べるようにしたことがある。

2) 帝都防衛(ていとぼうえい)を担(にな)う陸軍航空第244戦隊がキ61三式戦闘機「飛燕」の整備で苦戦しており、相談を受けた「整備の神様」と呼ばれた刈谷正意大尉(かりやまさいたいい)に推薦され、指導したところ、戦時稼働率が80%になった。現在、現時点で整備能力が世界最高である航空自衛隊が平時稼働率90%で、アメリカ合衆国空軍の平時稼働率が80%で、アメリカ合衆国海軍の航空部隊の平時稼働率は空軍のそれより遙(はる)かに劣(おと)るとされる。40%くらいらしい。またニューギニア戦線の三式戦闘機「飛燕」の稼働率は、ひどいときには25%だったり、あるいは、0%だったりした。当時の物資供給や工作技術からすると、液冷式の戦闘機の戦時稼働率80%は驚異的な数字なのである。

3) 支那でP-51CマスタングMustangを鹵獲(ろかく)した。当初、日本へ海上輸送しようと、とりあえず、適当に分解してバラバラにした。ところが、潜水艦の攻撃の可能性が高いから海上輸送はやめることになった。より安全な空輸、つまり、現地で修理・整備を行ない、その機体を操縦(そうじゅう)して本土に運ぼうということになった。修理・整備の担当として、坂井雅夫少尉が派遣(はけん)された。敵国の戦闘機であるのだから、当然のことだが、設計図もなしに、初見(しょけん)で、ばらばらのP-51Cマスタングの機体を組み上げ直し、きちんと飛べるようにした。

この3点だけでもすごいが、実はもっとすごいぞ。

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その2


2013年7月22日月曜日

帝国陸軍航空本部長:寺本熊市(てらもとくまいち)「陸軍航空の父」と呼ばれた男

寺本熊市という和歌山県橋本市出身の男がいた。帝国陸軍航空本部長だった。「陸軍航空の父」と呼ばれている。

彼は大東亜戦争開戦にあたって、つぎのことばを残している。


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よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種(たね)を自動車でバラ撒(ま)いただけで、ほっておいても穀物(こくもつ)の出来(でき)る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄(まかな)ってきた国だ。国力を侮(あなど)ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様(てんしさま)にお仕(つか)えするだけだ。
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遺書を除けば、このことばくらいしか残っていない。もっと詳しく調べれば、いろいろとわかるのかもしれないけれども。

そして、終戦を迎えた1945年8月15日、玉音放送(ぎょくおんほうそう)の直後に自決(じけつ)している。

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8月15日、終戦の大詔(たいしょう=みことのり)を聞いた後、副官に「書きものをするから呼ぶまで来るな」と命じ、室内に太平洋地図と大東亜地図を二枚重ねて敷(し)いた上に、軍装を正して宮城(きゅうじょう)に向かって端座(たんざ=正坐(せいざ))し、古式(こしき)に則(のっと)り軍刀で腹を十文字にかき切り、次いで右頸動脈(みぎけいどうみゃく)を切った後、拳銃を口にくわえて発射。確実を期(き)した見事な最期(さいご)であった。
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陸軍中将・陸軍大臣であった阿南惟幾(あなんこれちか)は8月15日の午前5時半に介錯(かいしゃく)なしで割腹(かっぷく)し、苦しみながら、午前7時10分に絶命した。


「一死(いっし)ヲ以(もっ)テ大罪(たいざい)ヲ謝(しゃ)シ奉(たてまつ)ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅(しんしゅうふめつ)ヲ確信シツツ」



という遺書を残し、辞世(じせい)の句として


「大君(たいくん)の深き恵(めぐみ)に浴(あ)みし身は 言ひ遺(の)こすへ[=べ]き片言(かたこと)もなし」


という歌を添えた。


振り仮名なしだとこうだ。


「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」

「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすべき片言もなし」


そのつぎに自決したのが、寺本熊市である。玉音放送直後に自決した。

3番目に自決したのが海軍中将である宇垣纏(うがきまとめ)である。宇垣纏は玉音放送後に、他の搭乗員とともに11機の彗星で特攻を敢行(かんこう)する。陣中日記(じんちゅうにっき)である『戦藻録(せんそうろく)』は書籍化され、英訳も出版されている。


阿南惟幾(あなんこれちか)は人柄がよかったなどの点から周囲から慕(した)われていた。そのせいか、さまざまな戦争映画に登場する。陸軍大臣の自決というのも一般の人の記憶に残る理由であろう。角田房子は『一死、大罪を謝す――陸軍大臣阿南惟幾』を著(あらわ)している。


宇垣纏(うがきまとめ)は玉音放送後に特攻に出撃し、『戦藻録(せんそうろく)』を残していたから知名度が高いのだろう。


ところが、寺本熊市はそういうことはしていない。不平不満を洩(も)らすことなく、淡々と任務を遂行(すいこう)したようである。このような人物は次第(しだい)に忘れされていくようだ。

遺書は「天皇陛下と多くの戦死者にお詫(わ)びし割腹自決す」であった。


従三位功三級勲一等旭日大綬章。享年(きょうねん)57歳。←享年は数え年で表記するものです、為念(ねんのため)。
























寺本熊市の経歴について簡単に記そう。

寺本熊市は、和歌山県橋本市隅田町垂井(すだちょうたるい)にある隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)の宮司(ぐうじ)・寺本政吉の三男として橋本市隅田町平野に生まれる。

隅田八幡神社は京都府の岩清水(いわしみず)神社から勧請(かんじょう)[=分霊を他の神社に移すこと]された神社であり、高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)が弘仁(こうにん)7年(816年)に創建(そうけん)されたことに対して、神社勢力が対抗して貞観(じょうがん)元年(859年)に創建したものである。金剛峯寺と隅田八幡神社が紀ノ川を挟んで対峙(たいじ)しているのは、そういうわけである。なお、現在の隅田八幡神社の宮司・寺本嘉幸は寺本熊市の甥(おい)である。

奈良県にある旧制五條中学校から仙台陸軍地方幼年学校・中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(第22期)・陸軍大学校(第33期)を卒業。飛行第8戦隊長や飛行第16戦隊長などを歴任し、航空本部長として終戦を迎え、自決する。最終階級は陸軍中将である。

和歌山県橋本市出身なら、和歌山県伊都郡高野口町にある旧制伊都(いと)中学校に進学しそうなものだが、寺本熊市の出身地は奈良県との県境の近くにあり、旧制五條中学校のほうが近かったのである。

寺本熊市のことを戦後生まれでは知らない者が地元でさえも多い。軍人として余計なことは言わず、淡々と任務をこなし、悪い意味での目立ったことはしていないのも一因ではあろう。事実、目立つことをしなかったせいか、終戦後に自決した軍人一覧のあるサイトをいくつか、訪(おとず)れてみたが、寺本熊市を一覧から洩(も)らしているのがあったくらいである。

また、旧制五條中学校は、現在、奈良県立五條高等学校であるが、そこのウェブサイトやWikipediaにも、著名なOBとして掲載されていない。「陸軍航空の父」である陸軍航空本部長が一顧(いっこ)だにされていないのである。

和歌山県は1980年代の途中までは、日本教職員組合(日教組:にっきょうそ)の力が強かったが、80年代に日教組とは仲違(なかたが)いした。しかしながら、今でも、共産党系の全日本教職員組合(全教(ぜんきょう))の力は弱くない。奈良県も全教のちからが強いようである。

こうした組織の影響で、戦後の教育を受けた者は、寺本熊市のことを知らないのではないのではないだろうか?

なお、「寺本熊市陸軍中将之碑」は和歌山県橋本市隅田町平野56-2にある冨岡エッグファームのすぐ近くにある。寺本熊市の妻のアイは、冨岡重藏の伯母とのことで、冨岡エッグファームの冨岡幸男と関係があるのではないかと思うが、確認していない。

Links
写真で綴る陸軍中将寺本熊市の石碑
世紀の自決/寺本熊市
歴史が眠る多磨霊園
↓「写真で綴る陸軍中将寺本熊市の石碑」の中国語版(簡体字)
日本陆军航空兵之父-寺本熊市的石碑。






2013年6月2日日曜日

実家のある和歌山県橋本市の神社で開催される新春オセロゲーム大会で、出入り禁止になったことがある。

 和歌山県橋本市隅田町垂井(すだちょうたるい)に隅田八幡神社がある。国宝に指定されている「隅田八幡神社人物画像鏡」が有名である。また、帝国陸軍航空本部長であった寺本熊市(てらもとくまいち)中将(1945年8月15日、玉音放送後に自決)は、隅田八幡神社の宮司(ぐうじ)の息子で、現在の寺本嘉幸宮司は寺本熊市の甥っ子(おいっこ)らしい。

 隅田八幡神社では、今でも開催されているのかどうかは知らないが、「新春オセロゲーム大会」があった。

 和歌山県はオセロゲーム後進県である。だから、オセロゲームの基本戦術についての書籍を1冊、読みさえすれば、ほぼ無敵になれる。

 私のオセロゲームの実力がどのくらいに大したことがないのかというと、上京後、3試合で2勝1敗以上の成績で初段が認定される月例大会に2回出場して、1勝1敗1引と1勝2敗の成績だった。おまけに、小学3年生に負けたことがある。もっとも、小学3年生あたりは、定石(じょうせき)を研究しておらず、わけのわからない手筋(てすじ)で打ってくるから、何を考えているのかがわからなくなって混乱するということもある。後に世界チャンピオンになる人物が、その数年前に、全日本大会の東京都予選で小学校低学年の出場者に大番狂(おおばんくる)わせで負けるということもあった。

 初段がとれない実力しかなくとも、当時の和歌山県ではほぼ無敵になってしまう。

 隅田八幡神社新春オセロゲーム大会は、小学生と中学生しか参加しない。中学生以上は私だけだった。

 普通に勝ってもおもしろくないと思って、33対31で勝つのを狙(ねら)うことにした。たいていは33対31で勝利した。

 さて、決勝である。

 一緒に参加した同級生が自分よりも格下で、実力がどの程度のものかを知っている場合、33対31で辛勝(しんしょう)した奴が決勝戦の相手となると、優勝できると思うのは当然であろう。優勝できると確信し切っているのである。

 ところが、決勝戦だけは、全力を出した。

 軽く64対0のパーフェクト勝ちだった。

 優勝できそうだと思っていたのに、パーフェクト負けを喫(きっ)すると、小学生は泣きそうな顔になった。

 大人げないといえば、大人げないが、当時の私は大人ではなかった。

 決勝戦でパーフェクト勝ちを3回、繰り返して、3年連続優勝をしたところ、寺本嘉幸宮司が神社で売っているものすべてをくれた。破魔矢(はまや)・絵馬・お守りなど、すべてである。

「これ、全部、上げますから、来年からは来ないでください」と言われた。

 出入り禁止になったわけだ。

 どうせなら、「殿堂入りです」とでも言ってくれたら、よかったのにねえ。


寺本嘉幸宮司


2013年5月30日木曜日

地元出身の偉人のせいで、小学校や中学校の授業内容が影響を受ける事例

 私の出身地・和歌山県橋本市からはオリピック金メダリストをふたり輩出(はいしゅつ)している。

 ひとりはベルリン=オリンピックの女子200m平泳ぎで金メダリストになった前畑秀子(まえはたひでこ)であり、もうひとりはメルボル=オリンピックの男子200平泳ぎで金メダリストになった古川勝(ふるかわまさる)である。

 ちなみに、古川勝の姪っ子(めいっこ)とそのいとこを知っているが、このふたりはなんの努力もしないでも、もとから相当に身体能力が高く、そのふたりをはるかに凌(しの)ぐ身体能力の持ち主である古川勝が猛練習して、やっと金メダルがとれるということから、金メダルというのは大したもんだとつくづくと感心したことがある。

 それはともかく、小学校や中学校では夏の間、梅雨が明けきらぬうちから水泳の授業が始まり、9月になっても水泳の授業があった。その間の体育の授業はすべて水泳であったと記憶している。

 中学校の水泳部は、1日あたり1万メートルを泳ぎこんでいた。

 幼少のころは、全国の学校では、夏は水泳の授業しか行なわれないものだと思っていたし、水泳部は毎日1万メートル、泳ぐものだと思っていた。

 しかしながら、東京の学校では、自前のプールがないので、水泳の授業が年間3回しかないとか、まったくなかったりする学校も存在する。どちらかというと、学校ではなく、スイミング=クラブ主体なのである。

 そういえば、消しゴム版画家の故・ナニシー関(せき)のエッセイ集によると、彼女は、世界的版画家・棟方志功(むなかたしこう)と同郷であり、棟方志功の影響で、小学校の図画工作の時間は、ほとんど版画ばかりを彫(ほ)らされていたという。

 どこでも、そういうもんらしい。

 ところで、多変数解析函数論(たへんすうかいせきかんすうろん)への貢献で世界的に有名な数学者・岡潔は大阪市の生まれであるが、和歌山県伊都郡(いとぐん)紀見村(きみむら)にある尋常小学校と尋常高等小学校高等科を卒業しており、また、終戦を挟んで10年くらいを今の橋本市で過ごしている。

 しかし、数学・算数教育にはとりたてて力は入れていなかったのが不思議だったけれども、最近になって「橋本市おもしろ算数数学教室」や「橋本市岡潔数学WAVE」というのを立ちあげて、力を入れ始めたそうだ。

2013年5月13日月曜日

卵の自動販売機がうちの田舎にあると言ったら、むちゃくちゃ驚かれた。

 うちの故郷(和歌山県橋本市)には卵の自動販売機がある。市内の中心街から離れたところでは、コンビニエンス=ストアなどの小売店がないので、野菜や卵の販売所があるわけである。

 この間、うちの田舎(いなか)には卵の自動販売機があるということを話したら、生徒たちに驚かれた。

 日本は自動販売機大国で、なんだって自動販売機で売られている。最近では、駅に文庫本の自動販売機さえある。それに、卵の自動販売機というものは、意外と全国各地にある。

 和歌山県橋本市は、和歌山県内の鶏卵(けいらん)生産量全体の半分くらいを生産している。

 そうしたこともあってか、故郷(ふるさと)にいたときには、スーパー=マーケットの客寄(きゃくよ)せで卵10個入りパックが1円(ひとり1パック限定)で売られているときもあった。

 橋本市には養鶏場が多い。

 サザンオールスターズSouthern All Starsのデビュー曲「勝手にシンドバッド」に「江ノ島が見えてきた。俺の家も近い」という歌詞がある。

 若いころ、オートバイやオープンカーで帰省(きせい)したとき、高速道路を使わずに、奈良県を経由(けいゆ)して国道24号線(大和街道:やまとかいどう)で帰った際には、「養鶏場(ようけいじょう)のにおいがしてきた。俺の家も近い」と思ったものだ。

 たとえば、埼玉県の鄙(ひな)びた土地に出かけ、養鶏場のにおいがすると、ふるさとへの郷愁(きょうしゅう)に駆られる。

自己紹介

自分の写真
和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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