もちろん、たとえば昭和20年代であれば、学力がすこぶる高ければ、奨学金で高等学校・大学への進学が可能であったが、しかし、幼い弟妹の生活費を稼がねばならず、泣く泣く就職という例もあったが、現代では、そういうことはないだろう。
そうなると、家庭環境や保護者の教養レベル、ならびに本人の素質・努力などによって、学歴が低くなったということになる。しかし、環境が悪くても、それを撥(は)ね退(の)けて頑張った人も、数は少ないものの、いなくもない。つまりは、本人のせいというわけだ。
これは惨(みじ)めだろう。
そうした立場の人間が全員、そうなるというわけではないが、つぎのような事態が予想される。これは社会心理学では、一般的に唱えられていることだ。
学歴が低いのは、自分の素質によって、勉強に対する適性がなかったからだ。頭が悪かったからだともいえなくもない。全員ではないが、こうした事実に耐えられない者は少なくない。だからといって、もともと適性がなかったのであるから、いまさら、勉学に邁進(まいしん)することはできないし、したとしても、それほどの効果は期待できない。若いときにしか効率よく勉強できない分野があるのだ。また、加齢とともに学習能力は落ちている。
もはやどこにも抜け出せない。
このような状況に陥(おちい)った場合、惨めな自分を慰(なぐさ)めるためにも、自分が所属するなんらかの集団、たとえば、「日本人」という集団を措定(そてい)し、「日本人は優秀である」と決めつけ、日本人ではない者を「自分よりも劣(おと)っている」と考えようとする場合がなくもない。つまり、自由で平等な競争社会を実現すると、競争に敗れた者は、自分よりも弱い者を見つけ出し、差別をする危うさを孕(はら)んだ微妙な存在となる。
自由で平等な競争社会は、ファシズムの温床(おんしょう)でさえある。
自分自身がそうならないためにも、真面目に努力するしかないのだろう。でも、駄目な人は駄目なんだろうな。
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