さて、「ほどほどのしあわせ」は、「本当のしあわせ」とはいえない。なぜなら、自分よりも、しあわせな人間がいるかぎり、自己のしあわせに対して、完全な満足感が得られるわけではない。いくらかでも、妬(ねた)みや嫉(そね)みがある以上、それは「本当のしあわせ」とはいえない。
そうなると、「しあわせ」とは1種類しか存立(そんりつ)しえない。それ以外は、すべて不完全な「しあわせ」である。
「しあわせな状態」が1種類しかない場合、その「しあわせな状態」も場合分けできる。「しあわせな状態」に到達できるまでの時間で分けることができる。
唯一の「しあわせ」に到達するのに、30年かかる場合と、2年で到達できる場合とでは、どちらが、より一層「しあわせ」であるといえるのであろうか?
当然、最短時間で到達できるのが、「究極のしあわせ」であろう。
「究極の最短時間」を追求すると、その人物のすべての行動が、理論的には、がっちりと決まってしまう。そこには、なんの自由意志も存在しない。
「究極の最短時間」で「究極のしあわせ」を求めると、自由がまったくなくなり、すべての行為は、苦役(くえき)と同じになってしまう。
この状態を「しあわせ」と呼ぶ人間がこの世界に存在するとは思えない。
以上のことから、「しあわせ」という語の定義から演繹(えんえき)すると、「しあわせ」というものは存在しえないということがわかるはずである。
同様に、たとえば、倫理学(りんりがく)という学問があるようだが、倫理学の始まりが、ソクラテスの「善(よ)く生きよ」を追求するものであるならば、最終的には自由のない苦役(くえき)のような生き方を強いるものになるはずであり、そこには人間性のかけらすらなく、まるでロボットのような生き方にならざるをえない(はずである)。
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