2012年10月27日土曜日

「最古」に拘泥(こうでい)する東家(とうげ)の天保(てんぽう)地車(だんじり)


 私の出身地は和歌山県橋本市東家(とうげ)である(本家は橋本市橋本で、江戸時代では、橋本町)。私が子どもの頃(ころ)には、子ども地車(だんじり)しかなかったと記憶している。

 ところが、何年か前から、東家の地車(だんじり)が「日本最古の地車(だんじり)」と、地元の人たちだけが言い出した。天保(てんぽう)十一年(皇紀2500年、西暦1840年)の作である。

 子ども地車(だんじり)しか記憶にないから、一体(いったい)、なんなんだと思っていた。

 すると、もっと古い地車(だんじり)がほかの地域で、小屋に保管されていることが判明した。

 そこで、「現役最古の地車(だんじり)」言い始めた。

 ところが、もっと古い現役最古の地車(だんじり)が出現した。

 すると、「ちゃんとした証拠がある現役最古の地車(だんじり)」と言い始めた。

 その証拠とはつぎのものである。



 彫刻の責任者、且(か)つ彫り師(ほりし)である花岡源助の銘と、完成した日付けの書き付けが残っており、「浪華在 彫工 花岡源助 天保十一年六月二五日」とある。

 ということで、「ちゃんとした証拠のある現役最古の地車(だんじり)」となった。

 すると、ほかにも「ちゃんとした証拠のある現役最古の地車(だんじり)」が現れた。

 そんなことから、曾(かつ)ては屋根を上げ下げすることができる、且(か)つ、屋根の低い岸和田型に限定すると、つぎのようになる。

「岸和田型で、且(か)つ、明白な証拠のある現役最古の地車(だんじり)」

 岸和田型とは、城門を通るために、屋根の上げ下げができる地車(だんじり)だったのだけれども、壊れたままにしていて、屋根を下げた状態のままで、運用しているらしい。それでも、岸和田型と言い張っているのは、なんというか、ここまでくると、見苦しくて、痛々しい。

 更(さら)には、つぎのような歴史がある。

天保11年:岸和田市中町が新調
大正11年:泉南郡木島村清児(現・貝塚市)が購入
昭和23年:泉北郡郷荘村今在家(現・和泉市芦辺)が購入
昭和34年:橋本市東家が購入

 つまり、東家の地車(だんじり)は、お下がりのお下がりのお下がりなのである。地車(だんじり)を、当時の物価から考えると、今、新調すれば、1億円くらいかかるそうだ。お下がりを購入するしかないくらいに、橋本市東家は貧乏な土地柄(とちがら)であったらしい。

 また、坂が多いから、私が子どものときには、大人は地車(だんじり)を曳(ひ)くことはなく、子ども地車(だんじり)だけだったと記憶している。坂道を曳(ひ)くことはなかった。テレビなどで岸和田の地車祭(だんじりまつり)を目にするうちに、平成20年あたりから、地車(だんじり)を曵(ひ)き始めたようだ。

 うちの生徒に以上のことを話したところ、最古に拘泥(こうでい)していることについて、「それって、ギャグでやっているんですか?」などの反応があった。ギャグなら、まだいいけど、どうも、本気らしいから、さらに痛々しい。

「東家のだんじり」「東家の天保だんじり」で検索すると、いろいろと出てくるよ。

 以下は、東家の地車(だんじり)の動画(2011年)。

 

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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