2014年4月30日水曜日

ヘボン式以外のローマ字表記には一体、何があるんだと南カリフォルニア大学の教授が言った。

大学生だったとき、早稲田大学の国際学部で、南カリフォルニア大学の哲学の教授が1年間、客員教授を務(つと)めた。交換留学生の教授版である。

この国際学部というのは、主に英語圏の大学生が交換留学生として在籍しているのだが、日本語に堪能(たんのう)なわけはなく、日本の大学に留学しながらも、英語で授業を受けているだけだった。

その国際学部に、南カリフォルニア大学の哲学の教授が1年間、在籍した。

英会話が好きな日本人の学生が、国際学部の校舎によく出入りしていた。

学生たちが自由に出入りし、雑談をしたりする部屋があった。ある日本人の学生が、南カリフォルニア大学の教授と話をしたところ、この大学の哲学科の学生たちと会いたいと言った。

そう言われた日本人学生が私をその教授に紹介し、哲学科哲学専修の学生数人で、教授の住まいを毎週1回、訪問して、ざっくばらんな講義を英語で受けるようになった。

その教授は、日本に来る前に、日本語会話の本を何冊も読んだ。

すると、どの本でも、「日本語をアルファベットで表記するにはさまざまな表記法があるが、本書ではヘボン式ローマ字を採用している」ということが書いてあった。

日本語会話の本を何冊読んでも、「日本語をアルファベットで表記するにはさまざまな表記法があるが、本書ではヘボン式ローマ字を採用している」と書いてあるばかりである。

それで、その教授は、「ヘボン式以外のローマ字表記には一体、何があるんだ?」と言った。

それで「訓令式(くんれいしき)ローマ字」を教えた。

「『し』をsi(シィ)と表記する訓令式は駄目(だめ)だ。英語を話す人には発音に関して誤解を与える。『し』はshi(シ)でないといけない」とその教授は言った。

いやはや、だから、ヘボン式ローマ字表記で日本語会話を説明しているんだって。

この教授の話は、明日に続く。

2014年4月28日月曜日

万引きしそうに見えないらしい。

近所にある酒や食料品などを中心に扱う万屋(よろずや)のようなお店に行くと、私が入ってきたのを見た店主が、倉庫に行って、品出しをし始めることが何度かあった。

倉庫に行っている間に万引きされたり、盗まれたりするだろうから、まずいんじゃないですかと訊(たず)ねた。

「お客さんは万引きしないタイプだというのがわかりますよ」

どういう点から、そういうことがわかるのかと訊ねたが、長年の勘(かん)としか言えないとのことであった。

以前、痴漢(ちかん)しそうにない男という記事を認(したた)めたが、同じような理由から、言語化できないが、かなりの人にはなんとなくわかるものがあるようだ。

私自身は鈍感(どんかん)なので、そういうのがなかなかわからない。

あとになって、あの人は人格障害が入っていたなと気づいたことはあるが、最初からは気づかなかった。

最近になって、この生徒の母親には人格障害がありそうだというのが少しはわかるようになってきている。とはいえ、普通の人よりは、まだまだ鈍感(どんかん)であるらしい。

ずいぶんと以前のことだが、友人・知人によると、彼らが初めから「危なっかしい」と思って、近づかないようにしている人とでも、簡単に話をしたりするので、私のことを「別の意味で危なっかしい」と思っていると言われたことがある。なんでも、「警戒心が皆無(かいむ)」だという。

以上の内容をうちの生徒に話した。

「痴漢も万引きもしたことがないっていうのは、つまらない人生ですね」

おいおい、どっちも犯罪だって。

2014年4月27日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男(その4)

坂井雅夫少尉(階級は終戦時)は、昭和11年(1936年)11月27日に第1期技術生徒のひとりとして卒業した。

当時、成績のよい者は海外に、それほどでもないものは内地勤務となった。

坂井雅夫は、第1志望の飛行第16連隊付となった。飛行第16連隊は満洲牡丹江(まんしゅうぼたんこう)*1に昭和10年(1935年)12月から拠点を構えていた。
*1:牡丹江=現在の黒龍江省牡丹江市(こくりゅうこうしょうぼたんこうし)である。

海外勤務で、第1志望どおりの任地(にんち)ということから、在籍中の成績がよかったであろうことが窺(うかが)われる。

飛行第16連隊を第1志望にしたのは、連隊長が、のちに陸軍航空本部長となる寺本熊市大佐であったからだろう。寺本熊市は、和歌山県伊都郡隅田町(いとぐんすだちょう)の出身で、坂井雅夫少尉は隣の橋本町(はしもとちょう)出身だからだ。

満洲に出発する前に、橋本町に帰省(きせい)した。当時の郷土新聞(きょうどしんぶん)につぎのような記事が掲載された。

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郷党(きょうとう)に嘱望(しょくぼう)されて空軍最前線へ坂井雅夫君出征(しゅっせい)

既報(きほう)陸軍航空技術学校第一期技術生は本県では二名だが、その一人橋本町出身の坂井雅夫君は優秀な成績で卒業し、伍長勤務上等兵(ごちょうきんむじょうとうへい)の肩章(けんしょう)も新しくこのほど実家に帰省(きせい)したが、同君は伊都中学四年在学中の昭和九年二月採用され……殊(こと)に橋本では航空界に送る最初の鳥人として……満ソ国境◯◯◯の寺本部隊長所属として非常時日本国防空軍の最前線に出征するもので……歓呼(かんこ)を浴びて盛んなものであった……

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満ソ国境◯◯◯」の◯◯◯は、牡丹江のことだろうが、軍事機密ということで、伏せ字(ふせじ)になっているらしい。

日教組(日本教職員組合)による反日自虐史観教育を受けた者からすると、初めて上記の記事を目にしたときには、信じられなかった。

満洲時代の話にはいろいろとおもしろいものがある。

まず、坂井雅夫は飛行第16連隊軽爆班第3中隊に配属された。93式双軽爆撃機の機付(きつき)*2となり、同時に、機上射手も務めた。訓練や戦闘では機上射手として機銃掃射(きじゅうそうしゃ)などを行ない、飛行場に戻れば、即座に整備をしなければならなかった。
*2:機付=特定の機体の整備担当を示す。

機上射手としての初陣(ういじん)は昭和13年(1938年)の夏だった。松花江(しょうかこう)*3の畔(ほとり)にある佳木斯(ジャムス)*4から東へ200キロメートルのところに位置する、富錦(ふきん)*4の南方の湿地帯に散在する小島を拠点とするゲリラ討伐に出動した。
*3:松花江=アムール川(黒龍江)最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(ちょうはくさん)(朝鮮語名:白頭山(はくとうさん))山頂火口のカルデラ湖(天池)から発する。
*4:佳木斯(ジャムス)=現在の支那大陸にある社会主義国家の最東部に位置する都市。
*5:富錦=黒龍江省東北部、松花江下流南岸の三江平原の中腹に位置する。佳木斯(ジャムス)より更に東に位置する。現在は、松花江下流沿岸の内陸河港と農地開墾の基地である。

満洲のような極寒地(ごっかんち)での整備はたいへんだったらしい。

気化器ドレンのプラグを軽く締(し)めたら、首部がポロリと折れたりして、内地(ないち)では考えられないことがよく起きたという。

酷寒地なので、炭火おこし当番は起床2時間前に起き、5俵(ごひょう)または6俵(ろっぴょう)の木炭に火を熾(おこ)し、事前に暖かくしておかなければならないが、坂井雅夫は2回、一酸化炭素中毒になった。

牡丹江のカッフェーで痛飲して、徒歩帰営の時刻が過ぎてしまい、中隊長に叱責(しっせき)され、翌日の射撃成績が散々で、昨夜の泥酔が原因だと怒った中隊長によって、零下30度の中、3回連続して、風防のない機上射撃をさせられ、顔が凍傷(とうしょう)になった。応急処置により、大事にはいたらなかったが、両眼のまぶたは黒枠のかさぶたになり、それがむけて赤べたになり、その繰り返しが1か月半、続いた。格好(かっこう)悪くて堪(たま)らなかったという。

兵器紛失もやっている。射撃訓練中に勢いよく銃を左に旋回(せんかい)させた瞬間に、右の扇形弾庫が落ちてしまった。着陸後、2台のトラックに分乗して、捜索(そうさく)を行なった。飛行場から5キロメートルほどの落下地点とおぼしきあたりは、梨花(りか)が咲き乱れており、紛失した坂井雅夫は必死で扇形弾庫を捜していたが、本人以外は、よいお花見だと大はしゃぎとなり、梨花の大枝を持ち帰って、中隊玄関の両脇に飾りつけた。支那事変の最中(さなか)にこんなことをやっていたんだぜ。

密閉風防(みっぺいふうぼう)はなく、後方銃座勤務(こうほうじゅうざきんむ)は寒さとの闘いであった。電熱服(でんねつふく)を着るのだが、断線すると凍傷になる。ショートして腰に火傷(やけど)を負ったことがあった。

着陸直後に整備を始めなければならないので、機上で凍(こお)りついた弁当を食べたこともある。

関東軍大演習時に、尾輪(びりん)がパンクしたが、予備がなかった。チューブのかわりに布を固く詰め、水を含ませると、凍りつき、即席のソリッド尾輪となり、無事、演習を終えた。まあ、この人は、部品がなければ、日用品で戦闘機や爆撃機を修理するような人だからなあ。

いろいろと苦労したようだが、本人によれば、のちに機関係(きかんがかり)として担当した三式戦闘機「飛燕」で味わった精神的苦悩に較べれば、まだましだったと述べている。「飛燕」のエンジンを「ガラスの心臓」と揶揄(やゆ)する人がいるくらいだから、よっぽどだったんだろう。

一方で、たのしいこともあったらしい。

夏には、飛行演習後に、水泳兼魚獲りをしたが、これがダイナマイト漁*6だった。上流でダイナマイトを投入し、下流で二列横隊で待つ兵士たちが、気絶したり、死んだりして浮き上がった魚をつぎからつぎへと手づかみで岸へと投げ上げる。2回やると、俵(たわら)にして3杯(さんばい)くらいは獲(と)れたという。
*6:ダイナマイト漁は生態系に影響を与えるということで、今の日本では禁止されている。

美しいロシア娘に惹(ひ)かれて、喫茶兼食品店に入り、生まれて初めてソーセージを目にするが、何なのかわからない。食べ物だとわかり、註文(ちゅうもん)したのはいいが、一口食べて、どうにも口にあわず、残した。ロシアのソーセージがどれほど不味(まず)いのか、気になるところだが、昭和10年代前半の日本人には、馴染(なじ)みのない味だったということにすぎないかもしれない。

また、演習の際に足を運んだ喫茶店の可愛い娘から手紙が届き、もう一度、吉林(きつりん)に行きたいと胸をわくわくさせたこともあった。

坂井雅夫は整備兵としてすこぶる優秀だったのだろう。彼が担当した93式双軽爆撃機第89号機は、中隊長機や編隊長機となることが多かった。

当時の工作技術と整備技術では100時間で発動機(はつどうき)交換*7となる。彼の整備した機体は、4回の発動機交換を経(へ)て、年間400時間無事故だった。
*7:発動機はエンジンのこと。

そのことで表彰状を受け取っている。

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表彰状 

牡丹江松岡部隊八木隊陸軍航空兵軍曹 坂井雅夫 


右之者(みぎのもの)昭和十二年三月七日以降九三双軽第八十九号機機長トシテ同機ノ整備ニ専念シ累次(るいじ)ノ猛戦闘討匪(もうせんとうとうひ)ハ勿論(もちろん)、教育訓練ニ支障ナク全機能ヲ発揮(はっき)シ累計(るいけい)四百時間ニ至(いた)レリ。此ノ間四回ニ亘(わた)リ発動機ノ交換ヲナシタルモ、常ニ好調ナル成績ヲ持続シアリ。是(これ)右(みぎ)整備員ノ努力ノ賜(たまもの)タル事ヲ立証ス。仍(よっ)て茲(ここ)ニ之(これ)ヲ表彰ス。 


昭和十三年四月二日 牡丹江松岡部隊八木隊長 八木斌

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軽爆撃機とはいえ、400時間もの年間飛行時間にして、まったく故障しなかったのは、当時としては、そして、現在でも、驚異的であろう。今まで知らべたところ、これを超える記録が見つからないので、おそらくは、帝国陸軍航空隊の最高記録だろう。

やるな、93式双軽爆撃機第89号機(←そっちじゃないだろ)。

93式双発軽爆撃機










帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1


日本陸軍試作機物語 陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

2014年4月26日土曜日

哀(かな)しきアルフレッド=ノース=ホワイトヘッド

アルフレッド=ノース=ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadは、哀(かな)しい人である。

彼は相対性理論(そうたいせいりろん)に取り組んだ。

当時、ニュートン力学では説明がつかない事象(じしょう)が多く発見され、理論の再構築(さいこうちく)が必要だとされた。

さまざまな理論物理学者が、相対性理論に取り組んだ。突然、アルベルト=アインシュタインAlbert Einsteinが登場して、相対性理論を成(な)し遂(と)げたわけではなかった。

さまざまな論文が提出され、観測結果(かんそくけっか)などから、さまざまな理論がどんどん脱落(だつらく)していった。

そして、最後に残った2つの理論は、アインシュタインのものとホワイトヘッドのものだった。

このふたりの理論は、ほぼ同じであった。

たったひとつ違っていたのは、アインシュタインは、重力で光は曲がるとし、ホワイトヘッドは重力で光が曲がることはないという点だけだった。

日蝕(にっしょく)を観測したところ、太陽の向こう側にあるはずの恒星(こうせい)が観測できた。重力で光が曲がらなければ、見えるはずのない恒星が見えたのである。つまり、重力で光が曲がるということが判明したのである。

そして、相対性理論の栄誉(えいよ)はアインシュタインのものとなった。

ホワイトヘッドの第1の蹉跌(さてつ=つまずき)である。

その後、ホワイトヘッドは、バートランド=ラッセルBertrand Russellとの共著で、『プリンキピア=マテマティカ』Principia Mathematica(ラテン語で「数学原理」という意味)を刊行した。

この著書は、最後まで読んだ者が世界で4人しかいないとされる。たいていの論理学者は、前のほうだけしか読んでいない(私もそうです)。

それはともかく、クルト=ゲーデルKurt Gödelが「不完全定理」Gödelsche Unvollständigkeitssatzを提出した。

その結果、『プリンキピア=マテマティカ』の内容は、無矛盾(むむじゅん)でかつ完全であるということは、どうしても証明できないということになった。


また、ごく大雑把(おおざっぱ)にいえば、数学の基礎論における論理主義の矛盾を論理主義で解決しようとするというか、あるいは、集合論の矛盾を集合論で解決しようとするというか、そういうようなところがあった。

第2の
蹉跌(さてつ=つまずき)である。

その後、ホワイトヘッドは、ぐれてしまって、哲学に進んだ。

そういえば、バートランド=ラッセルは、自分の頭がよいときには数学をやり、頭が悪くなってからは哲学をやったと言っていた。

おいおい、最初から哲学をやった私の立場はどうなるんだ!? あ、最初から
頭が悪いってことか。

それはともかく、ホワイトヘッドは哲学に取り組んだ。「有機体(ゆうきたい)の哲学」というものだ。プロセス哲学ともいう。

その哲学に関しては『過程と実在』Process and Realityが著名である。しかし、たいていの人は知らない。


日本人の宗教観などは、基本的には自然崇拝(しぜんすうはい)なので、ホワイトヘッドの思想を受け入れる土壌(どじょう)がある。


しかし、漠然(ばくぜん)としたものであるとはいえ、日本には神道(しんとう)があるのだから、今更(いまさら)、ホワイトヘッドのプロセス哲学に与(くみ)する必要はそれほどない(はずである)。


これは、原始仏教や栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)や道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)などの禅(ぜん)の思想があるにもかかわらず、ごく一部の日本人がマルティン=ハイデガーMartin Heideggerの存在論(そんざいろん)に入れ込んでいるのと似(に)ている。


どうにも、不思議(ふしぎ)な現象(げんしょう)なのである。人文科学(じんぶんかがく)に関しては、西洋のほうが遅れている側面(そくめん)がある。ただ、日本は十全(じゅうぜん)
には言語化(げんごか)しないのだが……。

ホワイトヘッドのプロセス哲学は、無意識のものを含(ふく)めて、東洋趣味のあるごく一部の人々にしか受け入れられなかったような印象がある。

これは、現在の英米の哲学の主流が分析哲学や言語哲学であることからも伺(うかが)われる。

ただ、不思議なのは、東洋的思想に到達(とうたつ)したホワイトヘッドの思想をありがたがって、崇(あが)める日本人がいることである。

もっとも、ホワイトヘッドが日本に残した功績(こうせき)もある。

『観念の冒険(かんねんのぼうけん)』Adventure of Ideasという著書がある。

この題名は、なかなかかっこいいと思えるものだったらしい。

その後、日本の出版業界では『◯◯の冒険』という書名が多くなった。

それにしても、あれほど頭のよい人が、日本に対して残した最大の功績(こうせき)が『◯◯の冒険』という書名だけだったというのは、哀(かな)しい。

[まとめ]
相対性理論では惜(お)しいところで駄目(だめ)だった。2番だった。
数学を基礎づけようとしたが、ゲーデルの不完全性定理によって駄目を押された。
哲学に転進したが、じつは神道の考えを言語化したに過ぎないような内容だった(らしい)。
日本の出版業界で『◯◯の冒険』という題名を流行(はや)らせただけだった。

どんなに頭がよくても、タイミングが悪いと、その能力の割には成果(せいか)が出せないこともあるということなんだろうな。


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2014年4月25日金曜日

小学4年生で集合論を習った世代

高校生に集合論を教えている途中、私の世代は小学4年生で集合論を習ったと言ったら、驚かれた。

小学4年生のときに、ド=モルガンの法則を習ったのかどうかは記憶にない。たぶん、習っていないんだろうな。ベン図は習ったのはまちがいない。

昭和46年から、小学4年生の算数の教科書に集合論が登場した。

数学には、それぞれの分野全体を貫(つらぬ)く共通のものが、一見すると見当たらない。

そこへ、19世紀に集合論が登場した。

アルフレッド=ノース=ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadとバートランド=ラッセルBertrand Russellによる『プリンキピア=マテマティカ』Principia Mathematica(ラテン語で「数学原理」という意味)では、集合論、基数、序数、実数だけを扱っている。

昭和46年から小学4年生に集合論を教えることになるにあたって、強い影響を及ぼしたのは、ニコラ=ブルバキNicolas Bourbakiではないだろうか?

ニコラ=ブルバキとは、フランスの若手数学者を中心とする集団による共同ペンネームで、集合論によって数学を基礎づけようとした。

その著『数学原論』Éléments de mathématiqueでは、最初の4巻が集合論であり、第4巻は最初の3巻の要約版である。

ここで、注意深い人なら気づいただろうが、一般のフランス語では、数学はmathématiquesであるが、『数学原論』の原題では、語末の-sを取り去り、単数形のmathématiqueとしている。数学は統一性のあるものであるという信念をニコラ=ブルバキが抱いていることを示している。

一方、ニコラ=ブルバキの著書には『数学史』もあるが、こちらの原題は、Éléments d'histoire des mathématiques(直訳:数学の歴史の初歩→数学史入門)と複数形になっている。

こうした流れから、当時の文部省は、算数・数学の概念(がいねん)を明確にするために、小学4年生に集合論を教えることにしたのだろう。

昭和43年改訂の小学校学習指導要領には「集合については形式的な指導をすることがねらいではなく、積極的に集合に着目させることによって、内容の学習やその処理が適切にできるようにすることをねらいとするものとする」とある。

昭和43年改訂の小学校学習指導要領告示のうちの算数の部分

ところが、教育現場では、ちょっとした混乱が起こった。教える側の教師で、集合論が理解できていない者が少なからずおり、でたらめな授業をしたり、理解できない生徒をよりよく理解させることができず、どうせ子どもだからと嘘(うそ)を教えたりした。

そんなところへ、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞の数学者・広中平祐(ひろなかへいすけ)などが、小学生に集合論を教えなくても問題ないと発言するようになった。

小学4年生への集合論の教育は、昭和46年から始まったが、9年後の昭和54年で終了した。

数学原論 (〔1〕)

数学原論 (〔2〕)

数学原論 (〔3〕)

数学原論 (4) 集合論 要約


1970年度に発行された『数学原論』第1巻の表紙

2014年4月24日木曜日

海上自衛隊のカレーのレシピの単位



2014年4月19日に「第2回護衛艦カレーナンバー1グランプリ in よこすか」が開催された。15もの艦艇や部隊が参加しただけでも、壮観なものだが、イージス=システム搭載護衛艦が5艦も参加していた。

グランプリに輝いたのは、潜水艦部隊による「濃厚味わいカレー」で、そのレシピが海上自衛隊のウェブサイトで公開されていた。

潜水艦部隊 濃厚味わいカレー レシピ

レシピでは、たとえば、「白ワイン 23mL」などと表記されている。「白ワイン 23cc」ではない。

「mL」表記のレシピは、記憶にないのだが、海上自衛隊の伝統的な表記方法なのだろうか?

それにしても、6分の5もの艦艇が集結して、カレー大会をやっているとは、よその国の人は信じないだろうな。

海上自衛隊では毎週金曜日にカレーを食べるのだが、昔は、土曜日の昼食にカレーを食べていたんだよ。











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2014年4月23日水曜日

スポーツ選手と楽器の演奏のできる人は、本気を出せば、成績の伸びがすごくよい理由に、もうひとつの要素があった。

スポーツ選手と楽器の演奏ができる人は、本気を出せば、学力が無闇(むやみ)に上昇する。

今までは、つぎのように考えていた。以前にも認(したた)めたものである。

スポーツ選手は体力があるから、長時間、勉強できる。

夏休みなどの長期休暇(ちょうききゅうか)で、1日あたり、13時間は勉強できる人間と、6時間くらいでへこたれる人間とでは、学力に差がつくのは当然であろう。

つぎに、学力の伸びと楽器演奏との相関関係については、数学を理解する脳の部分と、音楽を理解する脳の部分は隣(となり)合っているから、楽器の演奏ができるということは、潜在的(せんざいてき)には数理感覚(すうりかんかく)が備わっているはずである。

こうした点から、楽器演奏ができる人間は、学力が伸びやすいと思っている。

当校には、音楽大学出身の社会人の生徒がいるのだが、彼によれば、楽器演奏はけっこう体力がいるという。

となれば、潜在的(せんざいてき)とはいえ、数理感覚に優(すぐ)れ、楽器演奏に必要な体力が備わっているということになり、それで、楽器の演奏ができる人間は学力の伸びが高いということになる。

しかしながら、もうひとつの要因があるようだ。

早稲田大学スポーツ科学科の大学院で、社会人修士課程1年制を担当している教授が、つぎのような意味のことを述(の)べていた。

スポーツをしていた人は、同じことを繰り返すことに慣れているから、たいへん伸びる、と。

このことには気づかなかった。

同様に、楽器の演奏ができる者も、反復練習(はんぷくれんしゅう)をしているから、ちゃんとできるようになるまで、繰(く)り返すことは苦痛ではないだろう。

そういえば、学力の低い生徒には、同じ学習プリントを3回から5回は繰り返したほうがよいと指示したけれども、どうしても、やりたがらなかったのがいた。

それでも、偏差値64の高等学校には合格した。

当校では、真面目(まじめ)にやらなくても成績が上がる学習用プリントを当校では作成しているからである。彼がこちらの指示に従っていれば、偏差値70以上の高等学校には進学できたと考えている。

どうして、スポーツ選手と楽器演奏者は繰り返し練習することが苦ではないことに気づかなかったのかというと、できないことをできるようになるまで繰り返すのは「当たり前」だと思っていたからである。

今まで、こうしたことに気づかなかった不明(ふめい)を恥(は)じている。

2014年4月22日火曜日

ラットは3日に1回、餌をやるといちばん長生きするというデータがあった。

ラットは3日に1回、餌(えさ)をやるといちばん長生きするというデータがあったので、早速(さっそく)、試してみた。

もちろん、水は絶(た)やさぬようにした。

3日目(みっかめ)になると、ケージ(籠(かご))の中で、跳(と)んだり撥(は)ねたりして、暴れていた。「餌(えさ)をくれ!」ということらしい。

その一方で、毎日の糞(ふん)の量に変化がない。

餌をやった日・その翌日・翌々日・3日目と、糞の量に変化がないのは、おかしい。

ケージには、アメリカ産の牧草、チモシー種を敷(し)いている。

長生きするようにと3日に1回を導入(どうにゅう)したのに、うちの大黒鼠(ラット)たちは、チモシー種の牧草を食べていた。

ラットの平均寿命は2年8か月である。世界記録は4年3か月である。

うちの大黒鼠は、生まれてから1年4か月が過ぎた。

ということは、1年4か月が残りの寿命ということになる。

大黒鼠は頭がよい。よく懐(なつ)く。

ケージから出しておくと、いつの間にか、膝(ひざ)の上で、遊んでいたり、肩の上でごろごろしている。

せいぜいのところ、あと2年しか生きないと思うと、ちょっとさびしい。

2014年4月21日月曜日

パチンコで負けたことがない。

パチンコで負けたことがない。

といっても、6回しかしたことはないが、すべて大勝ちしている。

充分な情報なしに、決断するのが性格的にできないので、基本的にはギャンブルはしない。

パチンコの場合は、すべて、つき合いである。

気乗りはしないが、少しくらいはやってみるかとやった。

しかし、パチンコのやり方がわからないから、一緒にいるやつに訊ねたり、一旦、腰かけたてから、隣にいる見知らぬ人に、こういうときにはどうするのかということを質問したりした。

騒音に満ちた店内に慣れていないということもあるし、パチンコは慣れていないから、いくぶん、おどおどしてしまう。

ところが、大勝ちしかしていない。

最近になって、パチンコ屋は遠隔操作(えんかくそうさ)しているという噂(うわさ)があるということを知った。

ここから、初めてらしい客を見つけると、遠隔操作で、わざと勝たせて、味をしめさせ、常連客(じょうれんきゃく)に引きこもうという店舗側(てんぽがわ)の戦略(せんりゃく)だった可能性がなくもないという推測は可能だろう。

もしも、そうだとすれば、遠隔操作をしているらしい店に足を運び、初めてのふりをすると、パチンコで勝ちやすくなるのではないだろうか? 若者というものは、一定以上の年齢の者よりも、のめり込みやすいから、若者がこの手を使うと、うんと勝率が上がるかもしれない。

ただし、1店舗につき、1回しか使えない。

2014年4月20日日曜日

午前1時半ごろに酔っ払ったアメリカ人がやって来て、豊島園(としまえん)への道順を訊(たず)ねられた。

学習プリントを作成していたら、午前1時半ごろに、当校の玄関(げんかん)をノックする音がした。

こんな夜中に、いったい誰なんだと警戒して、杖術(じょうじゅつ)の杖(じょう)を手に、玄関をゆっくりと開けたら、酔(よ)っ払(ぱら)ったアメリカ人だった。

豊島園への道順を教えてくださいと英語で言った。迷子(まいご)になったらしい。

日本では、日本語のできる外国人には、外国語で話しかけたりはしないことにしているのだが、日本語がちょっとしかできないようなので、英語で話した。

地図を印刷してあげるから、中に入って待つように言った。

相当に酔っ払っていたのだろう。

印刷の手筈(てはず)を整(ととの)えている間、アリゾナ出身だということを何度も言った。一般の日本人には、アリゾナ州は知名度が低いので、そのことを気にしているようだ。

アメリカに行ったことはあるかというので、イングランドとウェールズとフランスとドイツとベルギーとスイスとイタリアにしか行ったことはないと答えたら、簡単なフランス語で話しかけてきたので、フランス語で答えたら、ちょっと戸惑(とまど)っていた。「何だ、今の英語は聴き取れなかった」と思わせようとしたのに、きちんと返事されたから、あてが外れたらしい。おもしろいやつだな。

英語会話スクールで教師をしていると言った。

そこで、うちの英語学習用のプリントを見せて、文の成分や品詞に応じて、たとえば、主語は緑色、動詞はオレンジ色、目的語はピンク色、補語は青色、接続詞は紫色、副詞は黄緑色、前置詞は水色という具合(ぐあ)いに色をつけることによって、理解する速度を上げていると説明したら、えらく感心していた。

すると、職業は何だと訊(き)いてきた。アメリカ合衆国には学習塾や予備校があまりなく、主流は家庭教師なので、ピンとこないのだろう。

バーカーという苗字(みょうじ)だったので、日本では笑われるでしょうと訊(き)いたら、そうだと言っていた。

それで、私の苗字もフランス語のÇa caille !(サカイュ)という音に近いので、フランス人に笑われたり、からかわれたりしたことが何度かあって、「すげー、寒い」という意味だと言うと、馬鹿と寒いか、あっはっはっはっはと大笑いしていた。そこまで、おもしろいのか、このネタ?

突如(とつじょ)、財布の中から、アメリカにいる彼女と一緒に撮(と)った写真を取り出して、見せてくれたり、大学では何を勉強したかと訊(き)くので、分析哲学だと答えたら、私は人類学を勉強したと言った。

先祖(せんぞ)はどこの国の出身かと訊(たず)ねたら、チェコ共和国だと答えたので、イングランド系の苗字に見える綴(つづ)りなのに、額(ひたい)の形がフランス人っぽいので、不思議に思ったんだと言ったところ、お前は天才geniusかと驚(おどろ)いていた。もっとも、英語のgeniusには、日本語の「天才」ほどのすごい意味はない。

プリント=アウトした地図に、赤ペンで経路(けいろ)を描(か)きこんで渡したら、喜んで帰って行った。

酔っ払った陽気なアメリカ人は、相当におもしろいということがわかった。その人の性格がそういうものだっただけかもしれないが……。

2014年4月19日土曜日

明日、4月20日は練馬区長選挙なんだが……。

前区長が急逝(きゅうせい)したため、練馬区長選挙が行なわれこととなった。2015年4月まで任期があったから、どこも区長選挙の準備をしていなかった。

慌(あわ)てて擁立(ようりつ)したが、渾沌(こんとん)としていて、わかりにくい印象(いんしょう)である。

2人は当選しないような気がするけれども、残りの2人のうち、どちらが勝つのか、見当がつかない。

任期満了による選挙だと、組織力のあるところが当選しやすいのだろうけど、どこも準備不足なのである。

2014年4月18日金曜日

樹脂製(じゅしせい)の白い茶漉(ちゃこ)しを山積みにして売っているお茶屋さんがあった。

樹脂製(じゅしせい)の白い茶漉(ちゃこ)しを山積みにして売っているお茶屋さんが、うちの最寄(もよ)り駅から4駅先のところにあった。

怪訝(けげん)に思って、店内に入って、訊(たず)ねてみた。

茶渋(ちゃしぶ)がついても、塩素系漂白剤の「ぬる」っとした感じが気持ち悪くて、茶渋のついた茶漉しを使い捨てにする人が多く、そのために大量に置いているのだという。

塩素系漂白剤で用いられる次亜塩素酸ナトリウムは、食品添加物として使用され、また、野菜や果実の殺菌料としても利用されている。

「ぬる」っとした感触(かんしょく)が気持ち悪いという感覚だけで、使い捨てにしているというのは、不可解(ふかかい)である。

危険なものだったら、規制(きせい)されているだろうし、きちんと乾(かわ)かせば、蒸発(じょうはつ)すると思うのだが、感覚だけで生きている人というのは、理解できないなあ。

なお、行きつけのお茶屋さんによると、樹脂製の茶漉しは、熱で膨張(ぼうちょう)するので、あまりよくないそうである。

2014年4月17日木曜日

英語を高校や大学の入学試験からなくしたほうがいいのではないかと国会で質問した政治家がいたが……。

日本は、日本語だけで生活ができる国である。

発展途上国では、高校以上になると、英語の教科書を使って英語で授業をせざるを得ない。母国語の教科書がないからである。

ところが、日本では、余程の最先端技術などでないかぎり、かなり高度な内容のものまで、日本語で読める。

英語を必要とする人は、日本には1割程度しかいない。海外勤務者と、観光業に携(たずさ)わる人々、外資系の企業に勤めている者で、1割程度なのだという。

また、つぎのような議論もある。

たとえば、中学1年生から大学2年生を終えるまで、毎日、1時間、英語を勉強したとすると、「1時間×365日×8年+2日(閏年(うるうどし)=2922時間」となる。

概(おおむ)ね、3000時間になるわけだ。

卒業後、英語を必要としない職業に就(つ)く場合、この3000時間は、謂(い)わば、ただの無駄だったということになる。

一方、英語を母国語とする英国人やアメリカ人は、この3000時間を、ほかのことに取り組むことができる。元々(もともと)の能力が同じであれば、これでは国際競争に勝てない。

だから、この3000時間を、もっと有益なことに費(つい)やすべきではないのかという議論である。

さて、40年前だか、50年前だかに、入学試験から英語をなくしたほうがよいのではないかと質問した国会議員は、一般の人は、通訳と翻訳(ほんやく)を利用すればよいのだから、英語の試験は不要であるとしていたと記憶する。

そのときの答弁が意外なものだった。

入学試験から英語などの外国語をなくすと、英語などは選択科目になる。そうなると、ほとんどの人は外国語を選択しないだろう。

中学生に英語を教える能力しかない教員や、高校生に英語を教える能力しかない教員が多い。英語選択者が大幅(おおはば)に減(へ)れば、そうした教員は必要なくなり、その結果、大失業問題が発生する。

したがって、経済上の問題から、英語などの外国語を入学試験の科目から外(はず)すことはできない。

これには、意表を衝かれたな。

2014年4月16日水曜日

リーマン予想について解説しているブログやウェブサイトが急に増えていた謎がわかった。

ときどき、数学に関することをウェブで検索する。

久しぶりにリーマン予想について検索してみた。じつはリーマン予想について知りたかったのではなく、リーマン予想に取り組んだある数学者の名前が思い出せなくて、検索してみたのである。

リーマン予想について解説しているブログやウェブサイトが無闇(むやみ)に増えていた。

ブログ主の経歴(けいれき)・プロフィールから、これほどまでにわかりやすく説明できる能力があるとは思えないものが多々(たた)ある。

一体、何が起こったんだと思った。

調べたら、判明した。

NHKスペシャル「魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い~」が2009年11月15日に放送されていて、その番組の内容を、謂(い)わば、文字起こし、つまり、文章に直したにすぎないようなものや、あるいは、文字起こしされたものを読んで、それを書き直したものが大半だった。

テレビがないと、こういうことには気づきにくい。

こんなことを書いている私も、外国語のウェブサイトで述べられている内容を、引用元を明示(めいじ)せずに、引用、あるいは借用(しゃくよう)していることがあって、ときおり、驚かれるようだ。日本語の文献にはまったくない記事を書いているかららしい。

だから、こいつは一体、何者なんだと思うらしい。

その結果、「詳細(しょうさい)プロフィール」を読んだり、うちの「Google+(グーグル=プラス)」をチェックしたりする。

ただ、外国語が読めるだけなんだけどね。

とはいえ、日本の大学教授には、外国語が読めるだけの人が文系学部に多いのだが、オリジナルな研究ができなくても、なんとかなるらしい。もっとも、指導教官・指導教員に滅私奉公(めっしぼうこう)する必要はあるらしいが……。

2014年4月15日火曜日

甲子園に出場するくらいの高等学校から内部推薦で日本大学法学部に進学した生徒

彼は高等学校2年生の1学期の期末試験で学年でビリから9番だった。野球部だということから、「ある意味、裏のレギュラーだ」と嘯(うそぶ)いた。

彼はスポーツ推薦で、日本大学鶴ヶ丘(つるがおか)高等学校に進学した。

大学もスポーツ推薦で進学しようと思っていた。

ところが、肩を壊(こわ)した。大学へのスポーツ推薦はなくなった。

真面目に勉強しなければ大学に進学できなくなった。

高校2年生の9月から当校に入校した。

日本大学鶴ヶ丘(つるがおか)高等学校の規定(きてい)では、スポーツ推薦で入学した生徒は、怪我(けが)をしても、故障(こしょう)しても、当該(とうがい)の運動部を辞(や)めてはならないという規定(きてい)がある。

だから、しっかり練習をしなければならない。

故障した肩を庇(かば)いながら、早朝からの朝練(あされん)、昼食後の筋力(きんりょく)トレーニング、放課後の練習、これら、すべてに参加しなければならなった。

甲子園に出場するくらいの高等学校は、毎日、どのくらい練習しているのかと訊(き)いてみたところ、うちは東京都内の強豪校(きょうごうこう)ほどではないので、合計で1日あたり7時間くらいですと言った。

強豪校は毎日、9時間以上は練習するという。ナイター設備があれば、夜の9時や10時まで練習できる。

おまけに、ある高等学校の野球部では、「四合飯(よんごうめし)」といって、昼食時の弁当のご飯の量が「四合」だという。

毎日、当校にやってきて、指導を受けながら、当校の効果的なプリントをこなした。日によっては、午後10時にやってきて、午後11時半まで勉強するということもあった。

野球の練習で疲れて、プリントを渡した途端(とたん)に、そのまま眠ったこともあった。

それでも、必ず、毎日、当校にやって来て、勉強をした。

日本大学の付属校からの内部推薦では、高等学校の3年間の内申点の平均と、高校3年生の11月に実施(じっし)される「日本大学統一試験」(通称「日大統一テスト」「日統一」)を受験し、4科目の標準化点[=偏差値]を合計したものの数値で、内部推薦が決まる。

彼は、日本大学統一試験(日大統一テスト)の前に、日本史の対策をした。とにかく、暗記できるものは暗記した。

その年は、日本史の出題パターンが大きく変わった。

その結果、日本大学統一試験(日大統一テスト)の対策専門塾の生徒の大半は、日本史の出題傾向の変更に対応できなかった。

試験の結果、よい成績を、英語・国語のみならず、日本史でも収(おさ)め、クラス担任が、これなら法学部に進学できますねと言った。

3年間の内申点の平均と日本大学統一試験の標準点合計によって、推薦が決まるのだが、その上で、面接がある。これは概(おおむ)ね、形式的なものである(一部例外はあるらしい)。

彼は、3年間の内申点の平均も、日本大学統一試験の標準化点[=偏差値]の合計も、推薦基準のぎりぎりだった。

よほどのことがなければ、合格するのだが、彼は心配した。

3年間の内申点の平均も、日本大学統一試験の標準化点[=偏差値]の合計も、推薦基準のぎりぎりだったことから、たとえば「君はぎりぎりの成績なのだから、大学進学後は心を改めて真面目(まじめ)に勉学に励(はげ)みなさい」などと面接で説教されるなどと彼は予想していた。

ところが、面接ではこんなことを言われた。

「スポーツ推薦で入学して、甲子園に出場するような野球部に所属して、それで、この成績とは、君は本当によく頑張(がんば)ったね」

そう言われて、本人は拍子抜(ひょうしぬ)けしたという。

彼は、日本大学法学部に進学した。父親は大いに喜んだ。

内部推薦とはいえ、スポーツ推薦で高等学校に進学した彼が、法学部に進学することが決まったとき、同じくスポーツ推薦で進学した同級生がこう言った。

「スポーツ推薦でも、努力すれば法学部にも(内部推薦で)進学できるということを証明してくれて、ありがとう」

おい、おい、おまえもちゃんと勉強しろよ。

2014年4月14日月曜日

第2外国語の効果的な勉強法

第2外国語の効果的な勉強法について述べる。

難関大学では、中堅上位とされる大学と較べて、文法事項が5倍くらいの速度で、ひとつの文法事項について登場する単語や熟語も5倍くらいで、概(おおむ)ね25倍の速度で進行する。そのくらいの速度でないと、大学1年生の12月に原書購読(げんしょこうどく)ができない。

まず、当該(とうがい)の第2外国語の文法を解説してある英語の文献を買って、勉強する。

フランス語だと、代名詞の位置が英語とちがっていたり、ドイツ語だと、「枠構造(わくこうぞう)」というのがあるが、それでも、日本語の文法書で勉強するよりは、語順が近いので、きわめて迅速に学習できる。

その上で、比較的直訳の英訳を探し出し、原書とともに購入する。そして、両方の文章を並べて、只管(ひたすら)、読み込む。

以上の方法で、大学4年間で、私はフランス語をそれなりに習得し、ドイツ語では、哲学などの文献に限られるが、比較的短期間でかなり読みこなせるようになった。フランス語の成績は、1つを除いて、すべて「A評定(90点から100点)」だった。

但(ただ)し、この方法論の欠点は、英語の語彙(ごい)が少なくとも2万語、できれば3万5千語くらい必要だということである。

ちなみに、難関大学に合格するのに必要な英語の語彙(ごい)は、1万2千語くらいとされる。

ほとんどの大学生には、役に立たない方法論でした。

2014年4月13日日曜日

いつの間にか、体育実技が必修の大学が半分以下になっていた。

近所の早稲田の学生と世間話をしているときに、自分が大学生だったときの体育実技の選択科目の話をしたら、体育実技ってあったんですかと訊(き)かれた。

調べてみたら、体育実技が必修の大学が半分以下になっていた。

以前なら、オリンピック代表になれそうな学生を、大学院に進学させ、さらには大学職員として採用し、いわば、大学の広告塔として活用し、その後は、体育実技を担当する教員として大学に残っていた例が少なくなかったような記憶がある。

体育実技が少なくなれば、大学に残ってオリンピックを目指すというパターンは減るんだろうな。

2014年4月12日土曜日

人生を日数で考えたら、意外と短い気がするぞ。

人生を日数で考えたら、意外と短い気がする。

80歳まで生きたとしても、閏年(うるうどし)を考慮(こうりょ)に入れなければ、365日×80年=29200日である。3万日もない。

100歳まで生きたとしても、これまた、閏年(うるうどし)を考慮(こうりょ)に入れなければ、365日×100年=36500日である。4万日も生きられない。

人生というのは、そういうものなんだろうね。

2014年4月11日金曜日

好き、好き、大好き 柴田華絵ちゃん

浦和レッズ=レディースの柴田華絵(しばたはなえ)のプレーが大好きだ。「好き、好き、大好き」という感じだ。

私くらいの年齢ともなると、柴田華絵くらいだと、娘か孫娘くらいの感覚になる。

私自身、レベルは決して高くはなかったが、サッカーはやっていた。

女子のサッカー選手は、ときおり、男子選手では考えられない動きをする。

女性は、出産をするように身体(からだ)ができている。そのために、一般の男性よりは股関節(こかんせつ)が遥(はる)かに柔らかい。

その結果、並レベルの男子サッカー選手ならば、どうしてそんなフェイントができるのかと思うようなことができる。

女子サッカーを見ると、ときおり、ある瞬間に、男子とは動きがまったくちがう児とgっQRTUs から、サッカーではない別のスポーツを見ていると錯覚(さっかく)することがある。

スピードとパワーとフィジカルが女子サッカーに足りないと批判する人がいるけれども、「スピードとパワーとフィジカル」だけが欲しければ、男子サッカーを観戦すればいいだけのことだ。







2014年4月10日木曜日

「真田まつり」に関して笑ったこと

真田幸村(さなだゆきむら)の本当の名前は真田信繁(のぶしげ)である。講談や小説などで、真田幸村として有名になり、それが定着した。

真田幸村は、関ヶ原の戦いで石田三成(いしだみつなり)率(ひき)いる西軍、つまり豊臣方に、父とともに加勢(かせい)した。

幸村の兄は東軍に与(くみ)した。

親子で西軍と東軍にわかれるというのは怪訝(けげん)に思うかもしれないが、どちらが勝っても、真田家が残るようにとの配慮であった。

敗軍の将(しょう)ならば、切腹となるところだが、幸村は、地方への配流(はいりゅう)を命ぜられるにとどまった。

当初、和歌山県にある高野山(こうやさん)への配流を命ぜられたが、高野山は寒すぎるので勘弁(かんべん)してくださいと泣きを入れ、高野山の麓(ふもと)にある現在の和歌山県伊都郡(いとぐん)九度山町(くどやまちょう)への配流にしてもらった。

若い頃の私は、真田幸村ってのは、見事な「根性なし」だと思った。

しかしながら、最近になって、いつでも大坂城(おおさかじょう)[註:昔は「大城」と書いた]に迅速(じんそく)に出陣できるように、そういう演技をして、少しでも麓(ふもと)にある九度山に配流されるようにしたのかもしれないと思うようになった。

方広寺の鐘(かね)に「国(こっかあんこう)」の文字があることから、徳川家康が豊臣氏に難癖(なんくせ)をつけた。「家康」の文字を分断(ぶんだん)するものだとした。

幸村は、九度山を脱出して、大坂城に入城することとなる。

このときのエピソードで、つぎのものがある。

大坂城に向けて出発することになった。

九度山町や近隣にある現在の橋本市の庄屋(しょうや=わかりやすくいうと、村長さんみたいなもの)を集め、日頃のお礼に酒盛(さかも)りをしたいと申し出た。

現在の和歌山県橋本市と、大阪府との県境(けんざかい)、あるいは府境(ふざかい)には、紀見峠(きみとうげ)というところがある。紀見峠というは、伊国(きいのくに)がえるという意味である。

真田幸村が紀見峠を通過することがあれば、即座(そくざ)に徳川方(とくがわがた)に通報しなければならなかった。

そこで真田幸村は酒宴(しゅえん)を催(もよお)し、呼ばれた庄屋たちは酔っ払って、寝てしまった。いや、じつは、寝てしまったふりをしただけだった。幸村が大坂城に向かうのだと庄屋たちは判断していた。

そうすると、真田幸村が紀見峠を通過したことを徳川方に報告しなかったとしても、「いやはや、酔っ払って寝ていましたから」と言い訳ができる。

そうした阿吽(あうん)の呼吸で、今の橋本市の庄屋たちは真田幸村の大坂城入城を支援(しえん)した。

この話を読んだとき、中学校や高等学校の同級生で、所謂(いわゆる)、庄屋筋(しょうやすじ=庄屋の家柄(いえがら))の連中の先祖は、これを体験したのかと思うと、ちょっと羨(うらや)ましかったな。

和歌山県九度山町には、女人高野(にょにんこうや)と呼ばれる慈尊院(じそんいん)という寺と、真田幸村がいた真田庵(さなだあん)くらいしかない。

高野山は女人禁制(にょにんきんせい)という建前(たてまえ)になっていた。だから、女性は慈尊院(じそんいん)という九度山にある寺までしか行けなかった(ということになっている)。

実際は、豊臣秀吉が高野山焼き討ちを実施した際に、大量の女性と子どもがいたから、女人禁制は嘘(うそ)だった。

高野山の坊主(ぼうず)は、今でも、生臭坊主(なまぐさぼうず)ばかりだからな。

高野山焼き討ちのときの豊臣秀吉の決断が素晴らしい。

これほどまでにいる女(おんな)子どもをどうしましょうかと部下が秀吉に訊(たず)ねた。(女人禁制の)高野山に女(おんな)子どもはいないはずだから、いないはずの者を殺すわけにはいかんだろうと秀吉は言った。

九度山という地名は、慈尊院(じそんいん)に空海(くうかい)の母親がいて、空海はひと月に9度、母親に逢(あ)いに来たという故事(こじ)に由来(ゆらい)する。

空海がひと月に9度、慈尊院(じそんいん)にいる母親に逢(あ)いに来たということから「九度山」という地名になった。

慈尊院(じそんいん)と真田幸村くらいしか誇れるものがない九度山は、大東亜戦争の前から、ずっと「真田まつり」をやっていた。

しかしながら、真田氏の居城(きょじょう)である上田城は、長野県上田市にあり、どう考えても、こっちが「本家(ほんけ)」である。

ところが、九度山は、戦前から「真田まつり」をやっていた。長野県上田市が、真田まつりを35年くらい前に始めたときには、すでに和歌山県九度山町が「真田まつり」を戦前からずっとやっていたから、「上田真田まつり」とした。

本家が分家(ぶんけ)に遠慮(えんりょ)している状況は、なんだかおもしろい。いや、分家というよりは、よく考えると、九度山は流刑地(るけいち)にすぎないから、分家とすらいえない。

そんな九度山が、堂々と「真田まつり」をやりつづけているというのは、なんだか不思議な気がする。

2014年4月9日水曜日

ギリシア人のお姉さんに「あなたってすごいね」と言われたことがある。

大学生だったのときのことだ。山手線(やまのてせん)で、隣にギリシア人のお姉さんがいた。

当時、私は詰襟(つめえり)の学生服をよく着ていた。毎日、服を選ぶのが面倒くさかったからである。

詰襟の学生服に興味を抱いたギリシア人のお姉さんが、学生服のことを英語で訊(たず)ねてきた。

「そういう服を着ている人をよく見かけるけど、それはどういう服なの?」

「制服 school uniform というものです」

その後、ギリシア人だということで、ギリシア哲学の話をしたり、都市国家スパルタの兵站能力(へいたんのうりょく)を論じた論文の話をしたりした。かなりマイナーなギリシアの哲学者の話もした。古代ギリシアの歴史やスコラ哲学についての話もした。

すると、そのお姉さんは、「あなたってすごいね」とか、「日本人って、本当にすごいわ」とか、そんなことを何度も言った。

真面目に勉強している哲学科の学生なら、それほど驚くほどのことではないと思ったのだが、私のことを12歳くらいだとそのお姉さんが思っていたのが原因だった。

実年齢(じつねんれい)の半分くらいに思われていたのだった。

そういえば、35歳のときに、25歳くらいだと日本人同士でも思われていたことがよくあった。

ヨーロッパ人と較(くら)べると日本人は若く・幼(おさな)く見える。その日本人の中でも、とびっきりの童顔(どうがん)なのだから、20代でも12歳くらいだと思われてもしかたがない。

小学生がスパルタの兵站能力やギリシア哲学について英語で話したら、そりゃあ、びっくりするだろうね。

でも、最近は、実年齢に外見が追いついてきている。

「それって、ただの老化じゃないのか」と、心の中で突っ込んだやつに言っておく。根拠(こんきょ)はないけど、反省しろ(本当に根拠はまったくない)。

2014年4月8日火曜日

映画『KANO』の日本での2015年の公開が楽しみだ。

嘉義(かぎ)農林学校があった。略して「嘉農(かのう=KANO)」と呼ばれていた。

台湾からは甲子園には1校しか出場できず、日本人ばかりで構成された学校だけが毎回、出場していた。

永瀬正敏(ながせまさとし)演(えん)ずる近藤兵太郎(こんどうひょうたろう)が監督に就任(しゅうにん)し、やがては嘉義農林学校を甲子園出場に導(みちび)く。そして、嘉義農林学校は甲子園大会で準優勝を遂(と)げる。

「いいか、俺が近藤兵太郎だ。今日から、俺がお前たちの監督になる。俺がお前たちを甲子園に連れて行く。宜(よろ)しく頼(たの)む。……今日から毎日、嘉義市内を1周だ。……走れ!」

ある選手が、ガールフレンドらしき女の子を自転車の後ろに乗せて走っている場面がある。最初は現地語で女の子は話すが、のちには日本語を話すようになっている。
彼女が日本語で言った、「男なら、堂々(どうどう)としなさい」と。
左翼の人は、たぶん、日本の同化政策が進んだからだとかいうんだろうな。
でも、それだけ、つまり日本語を話すようになるくらいに、現地の人たちが日本を気に入ったということを表しているんだろう。

「蛮人(ばんじん)は脚(あし)が速い。漢人(かんじん)は打撃が強い。日本人は守備に長(た)けている。こんな理想的なチームはない」
こう、近藤兵太郎は言った。

甲子園に進めなくなったとき、近藤兵太郎は、言う。
「終わったんだ。挨拶(あいさつ)して来い」
「なにを泣いとる。……負けた者に泣く資格はない」


その一方で、のちに、甲子園進出を決めたときに、こんなことを言う。
「泣くな。お前たちは勝ったんだぞ」

勝っても負けても泣くなというのは、無茶な話だと思うのだが、たぶん、「男ならどんなときでも泣くな」というメッセージが籠(こ)められているのだろう。

「儂(わし)は、もう自分には負けとうない」
この台詞(せりふ)は、どういう文脈(ぶんみゃく)から出てきたのかがわからないから、ぜひとも、2015年に日本で公開されたら、映画を観てみたい。

ところで、八田與一(はったよいち)を演ずる大沢たかおがつぎのように言う。
「甲子園に行って、台湾の農民のためにも頑張(がんば)ってください」

八田與一は当時、東洋一のダムを台湾で造成(ぞうせい)した。その結果、台湾の南部は豊かな穀倉地帯(こくそうちたい)となった。

台湾の人たちの八田與一に対する敬意、あるいは尊敬の念はすごい。台湾では、八田與一のアニメさえある。信じられるかい?




2014年4月7日月曜日

和歌山県が主催する戦没者追悼式が2013年に初めておこなわれた。

和歌山県が主催する戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)は2013年に初めて行なわれた。

それまでは遺族連合会が独自に護国神社(ごこくじんじゃ)で行なっていた。

また、和歌山県橋本市主催の戦没者追悼式も2010年あたりからのようである。

少なくとも1980年あたりまでは、地方自治体主催の戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)はなかったと記憶する。

一方で、地元出身の軍人や部隊の話を積極的にする地方もある。

これこれという人は、この戦線でこんな活躍をしたという話を聞く。

そうした地方の生徒の学力は高くなる傾向にある。

日教組や全教が君臨(くんりん)していないからである。

どうも、日教組や全教は、「人間は平等だ」と唱えるけれども、平等にするのに、全員の学力を下げることによって、平等にしようとしているように感じる。

2014年4月6日日曜日

和歌山県庁が配信しているらしい和歌山紹介の動画の再生数が少なすぎて笑った。

和歌山県庁が配信しているらしい和歌山紹介の動画の再生数が少なすぎて笑った。

配信してから5年以上経(た)っているのに、フランス語版と英語版は、100回の再生にすらなっていない。

ほかの言語だと、もう少し再生数があるのだけれども、それでも、1000回の再生には届いていない。

この手の広報活動は、直近(ちょっきん)では成果がでなくても、地道にやっていくものなのだろうから、しょうがないのだろう。





2014年4月5日土曜日

綺麗で性格もよいのに、まったく男子学生にモテなかった女子学生の話

大学入学後に、クラスで呑(の)み会を開いた。

たいそう美しく、聡明(そうめい)そうな女子学生がいた。きょうこちゃんだった。指定校推薦で入学したという。

ある男子学生が、指定校推薦で入学したっていうのは、どのくらいの成績だったのかを訊(たず)ねた。

高校の3年間の成績で、「4」がひとつだけで、あとはすべて「5」であったという。

名門高等学校の出身で、それほどの成績ならば、東京大学でも合格できるのはないかというくらいだった。

とはいえ、そんな名門高等学校で、そんな成績だったということを知った男子学生は、畏(おそ)れをなした。

その結果、男子学生は、私を除いて、きょうこちゃんに近づかなくなった。どうも、一般の男子学生は、自分よりも遥(はる)かに能力の高い女子学生が好きではないらしい。

その後、同じクラスのようこちゃんと話をしたときに、うちのクラスの男子学生にモテるのは、それほど勉強が得意と感じれなく、ちょっと弱々しい感じがして、それでも、それなりに可愛いあいこちゃんや、よしこちゃんがモテるだろうと言った。

また、ようこちゃん自身は、男子学生を意識しないでだれにでも話しかけるから、(女に縁(えん)のない)中高一貫の男子校出身の男子学生に言い寄られそうだと指摘した。

すると、1年生の6月の時点で既(すで)に2人から告白されたと言っていた。おもわず笑ってしまった。

その上で、「きょうこちゃんはうちのクラスの女子学生が、あんなふうになりたいと憧(あこが)れる存在なんだろう、性格がよくて、スタイルもよくて、聡明(そうめい)で、顔が小さくて、綺麗だから。でも完璧(かんぺき)すぎて男子学生にはモテないだろうな」と言った。

すると、ようこちゃんは驚いて、「そうなのよ、あんなふうになりたいと(うちのクラスの女子学生は)みんな、憧(あこが)れているのよ」と言った。

ようこちゃんは私がそういうことを言ったことをきょうこちゃんに言った。きょうこちゃんはそのことがうれしかったらしい。

私が授業で、講師の誤訳を指摘したり、鋭(するど)い質問をしたりすると、きょうこちゃんは「掃除機くんって、すごーい」と授業中にあからさまに言った。そういうことが何度もあると、事情を知らない学生は、きょうこちゃんは掃除機くんが大好きなんだと勘違(かんちが)いした。

また、学生食堂でも、よく、私の隣に来ないかと呼ばれた。

女性というものは、自分のことを、性格もスタイルもよくて、知的で、綺麗だと言われると嬉(うれ)しいものであるらしい。しかも、そんなふうに称賛(しょうさん)しても、別段(べつだん)、言い寄ってくることがなければ、面倒な存在ではない。

すると、「消極的に大好きな人」になるようだ。

あるとき、早稲田大学の文学部のスロープ(坂道)で、母方の祖母に写真を送ろうと思って、カメラを持っていって、知り合いに写真を撮(と)ってもらった。祖母に「ぼくは大学で元気にやっています」という報告をするためだった。

そうしたところ、授業を受けに来た学生たちがやって来た。

同じクラスの女子学生たちと、ふたりで並んだ写真をたくさん撮った。

その中で、きょうこちゃんと撮った写真は、うちの女子中学生たちや女子高校生たちからすると、「超ラブラブ」だと思い、てっきり、つきあっていたのだと思ったという。

その後、きょうこちゃんは、ファッション誌の読者モデルとして、登場した。早稲田大学や立教大学は出版社に近いので、読者モデルにスカウトされやすい。

普通の読者モデルは、1ページに4人が掲載(けいさい)されていたのだが、きょうこちゃんは1ページをまるまる独占していた。そのくらいに綺麗(きれい)だった。

それで、面白(おもしろ)いかなと思って、きょうこちゃんが掲載されているそのファッション誌を買って、当該(とうがい)のページに、「超ラブラブ」の写真を挟(はさ)んで、7歳年上の叔母(おば)に送り、「ぼくにもこんな綺麗な彼女ができました」と嘘(うそ)の手紙を送ってみた。

ちなみに、昔は、8人くらいの兄弟姉妹なんてものは普通で、長女の息子と、最年少の叔母とはそれほど年が離れていないということが多い。たとえば、『サザエさん』のタラちゃんからすれば、ワカメちゃんは叔母になるのだが、それほど年齢は離れていない。昔は、そういう状況がよくあったのである。

それはともかく、7歳年上の叔母に、ファッション誌と「超ラブラブ」写真を送ったところ、一族で大騒ぎになっていた。

掃除機はそこそこモテていたけれども、ぶっさいくなのにしかモテなかったとか、こんな美人とそういう関係になるわけがないとかいう意見が出たという。

夏休みに帰省(きせい)したとき、うちの母ちゃんは、きょうこちゃんのことを「この子は、ほんまに別嬪(べっぴん)さんやなあ」と言っていた。

私は早稲田大学時代には、英語では、ひとつを除いてすべてA評定だった。

大学の評定では「優」「良」「可」があるが、早稲田大学の文学部と理工学部では「優」にはA評定の「優」とB評定の「優」があった。私の場合、語学とレポートでは基本的には「A評定」の「優」ばかりだった。

しかし、英語でひとつだけ「B評定」の「優」がひとつあった。

全体で「優」が8割を超え、「A評定」の「優」が65%を超え、GPA (Grade Point Average)が3.76という驚異的(きょういてき)な成績のだったのだから、決して馬鹿ではないのだが、英語で「B評定」の「優」がひとつあったのだ。

その「B評定」だった英語の科目で、「A評定」だったのは、うちのクラスではきょうこちゃんだけだった。こういうのは、どんなに努力しても素質が違うので、どうにもならないのだろう。

まあ、私は他人(ひと)の5倍から10倍の努力をしていただけの努力家にすぎないからなあ。

よく考えると、きょうこちゃんって、楽に単位が取れる科目のときには比較的、手を抜いていたらしい。単位認定が厳(きび)しいとされる科目のときには本気を出して、優秀な成績を修(おさ)めていたようだ。

才能が違うというのは、こういうことだろう。

でもね、才能が違うということを本当に実感するには、努力した人間でなければわからないから、努力したうえで彼我(ひが=相手と自分)の才能の違いを理解するのは、人生の上で大事なことなんじゃないかな。

自分がただの努力家だったということがわかっても、別段、なんとも思っていない。

人生とは、まあ、そういうものだろう。

2014年4月4日金曜日

2002年、日本開催のワールド=カップで、サウジアラビア対ドイツで、サウジアラビアがへろへろだった理由

アダルト=ビデオの見過ぎだったそうだ。

イスラム圏はすけべなビデオとアルコールには厳(きび)しい。多少は甘いイスラム国もあるが、サウジアラビアはとりわけ、厳(きび)しい。

女性の目を見たということで警察に逮捕される国である。

サウジアラビア代表がワールド=カップで来日して、日本のホテルに泊まると、料金さえ払えば、アダルト=ビデオが見放題(みほうだい)である。

その結果、サウジアラビア代表選手たちは、夜遅くまでアダルト=ビデオを見続けた。千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスとばかりに見続けた。

翌日のサウジアラビア対ドイツ戦で、サウジアラビアの選手はへろへろだった。

一体、どうしたことなのだろうかと思ったが、あとで事情がわかった。

それにしても、ワールド=カップとアダルト=ビデオでは、どう考えてもワールド=カップのほうが大事だろうと思うのだけれども、サウジアラビアの選手にとっては、当時、アダルト=ビデオが大事だったらしい。

文化が違うと、どうしても理解できないことがある。





2014年4月3日木曜日

偏差値32だった生徒が偏差値60台の高等学校に進学したときの話

彼は小学6年生の終わり頃に、近所の学習塾に入れられた。

ところが、dをbと書き間違えたり、catを「バット」と読んだりした。漢字の読み書きができないということで、小学校1年生の漢字の書き取りからさせられた。

一方、同じ塾に、隣の小学校・中学校の生徒で、いちばん上のクラスにいる女子生徒がいた。

彼は実力試験で偏差値32だった。

偏差値というのは、正規分布(せいきぶんぷ)の場合、偏差値63で100人中10番で、偏差値75で1000人中3番くらいである。

逆に、偏差値37では、100人中ビリから10番である。

親御さんも祖父母も、偏差値32というのはまずい、高校に進学できないかもしれないと思った。

そこで、祖父母の提案で、彼は当校に入校することとなった。

片道1時間20分くらいをかけて、土曜日と日曜日に来た。土曜日に当校に来て、近所にある祖父母宅に泊まって、日曜日にも勉強をした。

最初のころは、4時間くらいしか勉強できなかった。それでも祖父母は、孫が4時間も勉強しているのを喜んだ。

身長が伸びて、体力がつくと、土曜日・日曜日に、当校で、7時間から8時間、勉強した。行き詰まったときには、ヒントを出して、自分の脳を使って、問題が解けるように指導した。

中学3年生の3者面談で、英語が得意なようですねと、担任の数学教師が言ったとき、母親は、1年生のときと2年生のときのクラス担任が英語の先生だったからでしょうと答えたが、彼は、塾の先生のおかげですと言った。

彼は偏差値60台の高等学校に合格した。偏差値にして、29上昇していた。これは当校の中学生の新記録である。ちなみに、最低記録は毎日通って、偏差値が17しか上昇しなかった例があるが、それでも、他塾よりはすごい実績である。

偏差値が29も上昇したことで、祖父母は大いに喜んだ。

大学受験だと、短期間で偏差値が35上昇したという例があり、このことを話したところ、祖父母はちょっとがっかりしながら、大学受験だと、気合が入っているので、それくらい伸びる人もいるんでしょうねと言った。

大学受験だと、大学によっては、強い「癖(くせ)」のある問題を出すところがあるので、対策がしやすいという部分がある。

合格後、彼が、制服の採寸(さいすん)と教科書を受け取りにその高校に足を運んだところ、以前の学習塾で最上位のクラスにいた女の子がいた。

「あら、◯◯くんもこの高校に合格したの?」と話しかけてきた。

その高校には、4つのコースがあり、それぞれの難易度は違う。彼の進学したコースは、てっきりいちばん下のコースだと彼女は思い込んでいた。そりゃあ、dをbと書き間違えたり、catを「バット」と読んだり、小学校1年生の漢字の書き取りからさせられていたんだから、そう思うのは不思議ではない。

ところが、同じコースだと知ると、その女子生徒は凍(こお)りつき、それ以降、話しかけてくれなくなり、近づいてもくれなくなったという。

彼がこのことを話したところ、母親は腹をかかえて大笑いしたという。

2014年4月2日水曜日

おばあちゃんの聴講生が早稲田にいたんだけど……。

当時の早稲田大学第一文学部では、2年進級時に、専門課程に進んだ。

哲学科哲学専修では、必修科目として、キルケゴールの『死に至る病』を扱っていた。

呑(の)み会をすることになったので、その案内を作成し、そのコピーを教室で配った。

昨年、その科目を落第して、その年も受講している人たちもいたが、案内を配らないというのは、なんだか仲間はずれにしているようで、悪いので、そうした落第生たちにも案内のコピーを配った。

教室には、白髪頭(しらがあたま)のおばあちゃんもいた。ひと声かけて、その人にも案内を配った。

その人は聴講生(ちょうこうせい)だった。

クリスチャン(キリスト教徒)なんだが、教会での説教は聞くが、学問的にというか、アカデミズムの世界ではキリスト教がどういうふうに説明されているのかに興味を抱き、聴講生になったという。

その人は、高田馬場(たかだのばば)の居酒屋での呑み会にもやって来た。

男子学生は、おばあちゃんには興味がないので、あまり話しかけなかった。私は幹事ということもあって、そのおばあちゃんとある程度は話をした。

見ていると、そのおばあちゃんと積極的に話していたのは、第1子長女ばかりだった。どうも、第1子長女は、この手の心遣(こころづか)いに長(た)けているようだ。

2年生の夏休みに、早稲田大学の大隈講堂(おおくまこうどう)の前で、午後6時から翌日の午前6時まで呑み会をすることにした。各自(かくじ)が酒とつまみを持参するというものだった。

哲学科哲学専修の教授2人を誘ったけれども、夏とはいえ、石の上に坐(すわ)って12時間も呑み会をするというはついていけないということで、参加を断られた。

ところが、このおばあちゃんは、お酒とおつまみをたんまりと持って、やって来た。

途中、大隈講堂の裏にある劇団木霊(こだま)(正式な漢字は木偏(きへん)に旁(つくり)が霊という一文字である)の連中も合流して、おもしろかった。劇団をやっている人たちは基本的には貧乏なので、ただで酒が呑(の)めるとあれば、喜んでやって来る。中島さんという女子学生の劇団員が大好きになったな。

そして、3年生になったのだが、そのおばあちゃんは、よほど楽しかったらしく、哲学科哲学専修の必修授業を受講していた。うちの専修の第1子長女たちが気を遣(つか)って楽しくかまってあげたのが理由だろう。

ドイツ語ができないと単位が取れないイマヌエル=カントの『純粋理性批判』の授業なので、大丈夫なんですかと訊(たず)ねたが、気にしていない様子だった。

まあ、聴講生として受講するには、問題はないし、聴講生の場合、「修了証」が発行され、成績が記される。「修了証」の成績が悪くても、聴講生なのだから、卒業には関係はない。

このおばあちゃんは、4年生になっても、これまた、必修授業の講義に出席していた。

「この授業はフランス語で形而上学(けいじじょうがく)の文献を淡々と読む授業だから、大丈夫なんですか? もっとも、英訳のプリントを配るそうですけど」と言ったが、まったく気にしていなかった。

そのおばあちゃんは、結局、哲学科哲学専修の必修授業を3年間、受講し、哲学専修の呑み会にはすべて出席した。

「私はね、みなさんと一緒に卒業いたしますわ」とそのおばあちゃんは言った。女学校しか出ていないから、大学という雰囲気(ふんいき)が楽しかったと言っていた。

高級住宅地がある芦屋(あしや)のお嬢さんだったそうだ。

2014年4月1日火曜日

アメリカ合衆国の南部で銃の乱射がよく起こる理由

英国は1660年代から自国の犯罪者の流刑地として、アメリカを利用していた。とりわけ、今のアメリカ合衆国の南部に送り込まれた。

その後、英国で国外追放になった者は、今のアメリカ合衆国の南部に送り込まれた。

だから、英国の犯罪者の子孫が、南部に多数いる。

その結果、アメリカ合衆国の南部では、銃乱射事件などの異常な犯罪が多いのではないか。

だから、うちの生徒の兄が、アメリカ合衆国南部の大学に進学したということを耳にしたときには、アメリカ合衆国の歴史を知っていれば、怖(こわ)くてそんなことはできないと思った。

しかしながら、1776年にアメリカ合衆国が独立し、犯罪者を送り込めなくなったので、今度はオーストリアに送り込むようになった。

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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