経営上の難点はいろいろとある。
1)両親の学歴を軽く超えるの確実になると、退塾させられる生徒が出現する。
とりわけ、女子生徒の場合、経験上、6割はやめさせられる。
東京の東部(大卒率が30%未満や25%未満の地域)にある大手進学塾では、上から2番めのクラスの女子生徒をいちばん上のクラスに上げると、ふっとやめてしまう事例が多発しているので、一般的な基準であるいちばん上の上のクラスの平均点を超えたら上げるは適用せず、女子生徒の場合は、なるべく上のクラスには上げないようにという通達が出されたことがあるくらいである。
2)あまりにも短期間に成績が伸びるので、簡単な仕事なのではないかと思うらしい。
その結果、受講料を値切る親が出現する。
また、勝手に月謝袋の中身を千円や2千円少なくする親も出現する。
プリント作成にかかる作業工数などを説明し、当校のように個別対応型の塾では、プリント作成に関しては、少品種大量生産ではなく、多品種少量生産なので、これでもぎりぎりの受講料なのだと説明しても、一定レベル以上の知的な仕事をしたことがない女性やパソコンを使いこなせない女性は、論理的には多少は理解しても、感情の点では受け入れられないようである。
こうした場合、即座に退塾処分にしている。家庭環境ゆえに伸び代(しろ)が少ないのが判明したからである。
3)口コミが少ない。
あまりにも効率よく成績が上がり、周囲から、「やればものすごくできる子」と思われる。すると、その評価を下げたくないので、こんなすごい塾・予備校に通ったからですとは言いたくなくなる。
ある事例では、偏差値34から、高校3年生の8月から受験勉強を始め、立教大学に合格して、早稲田大学商学部には、0.052差で不合格になった生徒がいる。その生徒が大学生のときに、同じ部活動の後輩に受験で相談を受けても、当校を紹介しなかった。
また、別の事例では、当校入校時に「2」が6個、「3」が3個の成績で、学年順位は134人中110番台だったという生徒がいる。ところが、当校入校後、成績が上がり、周囲から、「どこの塾に通っているの?」と訊かれて、「あなたが通えないくらい遠くの塾よ」と答えた。
4)あまりにも成績の伸びがよすぎるので、はったりをかましているのではないかと疑われる。
私は小学2年生のときに実施された知能指数検査では、時間内にすべてを解き終えた。だから、知能指数は160以上はあった。
そういう人間には見えるけれども、そうでない人には見えないことがある。
その観点から受験校の対策を講じる。
しかしながら、とにかく暗記さえすればよいとような小学校の勉強や中学校の定期試験のための勉強は、受験に関しては無駄が多い。小学校のときにオール5だったのに、中学校で失速し、高等学校で終わってしまった人は、勉強方法を間違えているのだけれども、その間違いに気づいていない。「暗記量が足りなかった」と反省する。
これがわからない人は多い。
2014年3月2日日曜日
2013年2月27日水曜日
成人式の数日後に高学歴限定で小学校の同窓会を行なった人々が近所にいた。
数年前の話である。
成人式後に、同じ小学校出身者で2次会を行なった。懐かしくて、楽しかったそうである。
その生徒(当校には大学生の生徒もいる)に、後日、メールが届いた。
---
今度(このたび)、◯◯小学校出身者で、中高一貫校に進学して、東京六大学や旧帝国大学や旧国立大学1期校(実質的に、東京工業大学・一橋大学のみ)に通う者に限定した呑(の)み会を開くので、参加願いたい。
---
公立中学校・都立高等学校に進学して、高校を中退したり、その時点で働いている人や、なんだかわからない大学に通っている人がいたりすると、気を遣(つか)わざるをえず、のびのびと話ができないから、高学歴限定の呑(の)み会を催(もよお)すことにしたのだという。
中高一貫の私立に通って、それなりに難関の大学に進学している者だと、世帯収入なども近いので、服装などにかける金額に大きな隔(へだ)たりもない。
将来の職業について語る場合も、似たレベルの大学だと、気楽に話ができる。しかし、逆立ちしたって総合商社に採用されるわけがない人の前で、総合商社に採用されるようにと、こんな努力をしているなんてことは話せない。
また、帝京大学や日本大学生産工学部の英語の授業は中学3年生以下のレベルらしいなんてことも言えない。
さて、高学歴限定の小学校の同窓会に参加したうちの生徒によれば、変に気を遣(つか)わなくてよかったので、ものすごく楽しかったという。
この話を当校の中学生・高校生にしたところ、強い不快感を示した生徒と、そりゃあ、そうだろうなと納得した生徒とのふたつに別れた。
また、慶應義塾大学法学部出身の知り合いにこの話をしたところ、「そんなことをしたら、俺(おれ)の場合、ひとりぼっちの同窓会になってしまう」と言った。
成人式後に、同じ小学校出身者で2次会を行なった。懐かしくて、楽しかったそうである。
その生徒(当校には大学生の生徒もいる)に、後日、メールが届いた。
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今度(このたび)、◯◯小学校出身者で、中高一貫校に進学して、東京六大学や旧帝国大学や旧国立大学1期校(実質的に、東京工業大学・一橋大学のみ)に通う者に限定した呑(の)み会を開くので、参加願いたい。
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公立中学校・都立高等学校に進学して、高校を中退したり、その時点で働いている人や、なんだかわからない大学に通っている人がいたりすると、気を遣(つか)わざるをえず、のびのびと話ができないから、高学歴限定の呑(の)み会を催(もよお)すことにしたのだという。
中高一貫の私立に通って、それなりに難関の大学に進学している者だと、世帯収入なども近いので、服装などにかける金額に大きな隔(へだ)たりもない。
将来の職業について語る場合も、似たレベルの大学だと、気楽に話ができる。しかし、逆立ちしたって総合商社に採用されるわけがない人の前で、総合商社に採用されるようにと、こんな努力をしているなんてことは話せない。
また、帝京大学や日本大学生産工学部の英語の授業は中学3年生以下のレベルらしいなんてことも言えない。
さて、高学歴限定の小学校の同窓会に参加したうちの生徒によれば、変に気を遣(つか)わなくてよかったので、ものすごく楽しかったという。
この話を当校の中学生・高校生にしたところ、強い不快感を示した生徒と、そりゃあ、そうだろうなと納得した生徒とのふたつに別れた。
また、慶應義塾大学法学部出身の知り合いにこの話をしたところ、「そんなことをしたら、俺(おれ)の場合、ひとりぼっちの同窓会になってしまう」と言った。
2010年1月2日土曜日
パン切り包丁
パン切り包丁のある家庭は文化度が高いらしい。
忙しいときには当校(運営している学習塾)に弁当をこしらえて持っていく時間的余裕がない。それで、夕食として、フランスパンを買って、生ハムやチーズを乗せて食べている。
忙しいときには当校(運営している学習塾)に弁当をこしらえて持っていく時間的余裕がない。それで、夕食として、フランスパンを買って、生ハムやチーズを乗せて食べている。
そうしたところ、パン切り包丁を珍しがった生徒が複数いた。パン切り包丁というものを知らない生徒がいたのである。
まず、結論を述べよう。
パン切り包丁のある家庭は、サンプル数は少ないのだけど、パン切り包丁のある家庭は、「7,000万円以上の自宅に住んでいる」か、「社長である」か、「個人事業主」のいずれかであった。
今のところ、判明している範囲では、例外はない。もちろん、富裕層に属するけれども、大のお米好きで、あまりパン食をしない場合には、パン切り包丁がないこともあろう。
まず、結論を述べよう。
パン切り包丁のある家庭は、サンプル数は少ないのだけど、パン切り包丁のある家庭は、「7,000万円以上の自宅に住んでいる」か、「社長である」か、「個人事業主」のいずれかであった。
今のところ、判明している範囲では、例外はない。もちろん、富裕層に属するけれども、大のお米好きで、あまりパン食をしない場合には、パン切り包丁がないこともあろう。
判明した範囲内での当校の生徒の家庭で、パン切り包丁普及率は50%を切っているようだった。
パン切り包丁のある家庭の母親たちに言わせると、こんなぐあいだった。
「パン切り包丁って、どこの家庭にでもあるものなんじゃないですか?」
「フランスパンじゃないと合わない食事があるのに、どうしているのかしら?」
「スーパーの食パンしか買わない家庭があるということでしょうか?」
なお、私の場合、パン切り包丁は貰い物である。自炊をしており、なんでも自分で料理をし(天麩羅(てんぷら)を除く)、包丁だけで3本持っているのに、パン切り包丁がないのはおかしいではないかと女ともだちがくれたものだ。
また、実家にはパン切り包丁がない。親戚(しんせき)でパン切り包丁のある家(うち)もない。実家の近所にもパン切り包丁のある家(うち)は、記憶しているかぎりでは皆無(かいむ)であった。需要がないからそうなのか、供給がないからそうなっているのかは不明だが、少なくとも私が高校を卒業するまでは、実家のある和歌山県のど田舎では、そもそも、フランスパンは売っていなかった。
ともかく、パン切り包丁と民度には、そこそこの相関関係がありそうだ。もちろん、パン切り包丁がないからといって、民度が低いとはかぎらないだろうけど。
2009年7月29日水曜日
公立学校選択制は学力向上につながるか?
公立学校選択制は学力向上につながるのかという問いがある。
結論は、つながらない、である。
最大の理由は、保護者の大半には、適切な選択を行なうための情報がないからである。情報がないというよりは、むしろ、「情報を集めることができない」と言ったほうがよいだろう。
実際、東京都23区のそれぞれの区での人気のある区立中学校を調べると、「どうしてここがこれほどの人気があるのか?」と疑問に思う中学校が人気の上位にある場合が多く見かけるが、そうした場合には、校舎が新築されたばかりであるなどが多い。
教育の中身で選んでいないのである。その程度の基準で区立中学校を選んでいる保護者が多いようだ。学校選択制であっても、選択する側に明確な選択基準がないようだ。むろん、公立中学校の場合、私立とはちがって、わかりやすい特色が打ち出しにくいところはあるけど。
つぎに、理由として挙げられるのは、有名私立中学への合格者が多い小学校、あるいは、難関高等学校への進学者が多い区立中学校に進学させても、家庭環境がよくなければ、よい影響はあまり期待できないからである。
ここで「家庭環境」と表現したものを、ピエール=ブルデューPierre Bourdieuというフランスの社会学者はハビトゥスhabitusと呼んだ。habitusは「文化資本」と訳されることもある語だ。ハビトゥスとは、上品で正統とされる文化・教養・習慣の総体である。
難関大学に進学する学生は裕福な家庭の子である割合が高い。私が学部生であったとき、保護者の平均年収が最も高いのは東京大学の学生であり、そのつぎは早稲田大学であった(慶應義塾大学の学生の保護者の場合、適切な節税をしているらしい)。
単なる金持ちの子どもが難関大学に進学するわけではない。これは、早慶以上の大学に進学した者であれば、充分に実感しているだろう。
ピエール=ブルデューは、むしろ、ハビトゥスを備えた家庭出身者ほど高学歴になりやすいということを統計的に証明している。
文化資本(ハビトゥス)を保有していなければ、公立学校選択制によって、進学する小学校・中学校を選べたとしても、それほどたいした違いは生じないだろう。
いや、東京では、むしろ、ハビトゥスを保有するする家庭は、中学受験で一定レベル以上の私立中学校に進学させるので(東京都23区での私立中学校進学者は15%くらい)、場合によっては、どの公立中学校を選んでも、ほんの少しの差しか生じない。
なお、学力の高い公立中学校はあるが、学区内に一流企業の社宅のある場合が多く、その中学校の高学力は一流企業勤務のサラリーマンの子弟が底上げをしているのであって、そこにごく普通の家庭の子どもを入れたからといって、それほど学力が向上する契機(けいき)となるわけではない。
保護者(親)が若いときに勉強をしており、文化・教養を身につけていなければ、少々のことでは、子どもの学歴が大きく変化することはないということだ。
もちろん、例外はあるが、それはあくまでも例外にすぎない。
2009年7月27日月曜日
教育費を完全無料化するとどうなるか?(その2)
教育に関して、幼稚園から大学・大学院までの教育費が無料になり、さらには、現実問題としてはあり得ないが、塾・予備校・家庭教師などまでもが無料になれば、勉強が得意ではないことに経済的要因を挙げることが難しくなると、「教育費を完全無料化するとどうなるか?(その1)」で述べた。
もちろん、たとえば昭和20年代であれば、学力がすこぶる高ければ、奨学金で高等学校・大学への進学が可能であったが、しかし、幼い弟妹の生活費を稼がねばならず、泣く泣く就職という例もあったが、現代では、そういうことはないだろう。
そうなると、家庭環境や保護者の教養レベル、ならびに本人の素質・努力などによって、学歴が低くなったということになる。しかし、環境が悪くても、それを撥(は)ね退(の)けて頑張った人も、数は少ないものの、いなくもない。つまりは、本人のせいというわけだ。
これは惨(みじ)めだろう。
そうした立場の人間が全員、そうなるというわけではないが、つぎのような事態が予想される。これは社会心理学では、一般的に唱えられていることだ。
学歴が低いのは、自分の素質によって、勉強に対する適性がなかったからだ。頭が悪かったからだともいえなくもない。全員ではないが、こうした事実に耐えられない者は少なくない。だからといって、もともと適性がなかったのであるから、いまさら、勉学に邁進(まいしん)することはできないし、したとしても、それほどの効果は期待できない。若いときにしか効率よく勉強できない分野があるのだ。また、加齢とともに学習能力は落ちている。
もはやどこにも抜け出せない。
このような状況に陥(おちい)った場合、惨めな自分を慰(なぐさ)めるためにも、自分が所属するなんらかの集団、たとえば、「日本人」という集団を措定(そてい)し、「日本人は優秀である」と決めつけ、日本人ではない者を「自分よりも劣(おと)っている」と考えようとする場合がなくもない。つまり、自由で平等な競争社会を実現すると、競争に敗れた者は、自分よりも弱い者を見つけ出し、差別をする危うさを孕(はら)んだ微妙な存在となる。
自由で平等な競争社会は、ファシズムの温床(おんしょう)でさえある。
自分自身がそうならないためにも、真面目に努力するしかないのだろう。でも、駄目な人は駄目なんだろうな。
もちろん、たとえば昭和20年代であれば、学力がすこぶる高ければ、奨学金で高等学校・大学への進学が可能であったが、しかし、幼い弟妹の生活費を稼がねばならず、泣く泣く就職という例もあったが、現代では、そういうことはないだろう。
そうなると、家庭環境や保護者の教養レベル、ならびに本人の素質・努力などによって、学歴が低くなったということになる。しかし、環境が悪くても、それを撥(は)ね退(の)けて頑張った人も、数は少ないものの、いなくもない。つまりは、本人のせいというわけだ。
これは惨(みじ)めだろう。
そうした立場の人間が全員、そうなるというわけではないが、つぎのような事態が予想される。これは社会心理学では、一般的に唱えられていることだ。
学歴が低いのは、自分の素質によって、勉強に対する適性がなかったからだ。頭が悪かったからだともいえなくもない。全員ではないが、こうした事実に耐えられない者は少なくない。だからといって、もともと適性がなかったのであるから、いまさら、勉学に邁進(まいしん)することはできないし、したとしても、それほどの効果は期待できない。若いときにしか効率よく勉強できない分野があるのだ。また、加齢とともに学習能力は落ちている。
もはやどこにも抜け出せない。
このような状況に陥(おちい)った場合、惨めな自分を慰(なぐさ)めるためにも、自分が所属するなんらかの集団、たとえば、「日本人」という集団を措定(そてい)し、「日本人は優秀である」と決めつけ、日本人ではない者を「自分よりも劣(おと)っている」と考えようとする場合がなくもない。つまり、自由で平等な競争社会を実現すると、競争に敗れた者は、自分よりも弱い者を見つけ出し、差別をする危うさを孕(はら)んだ微妙な存在となる。
自由で平等な競争社会は、ファシズムの温床(おんしょう)でさえある。
自分自身がそうならないためにも、真面目に努力するしかないのだろう。でも、駄目な人は駄目なんだろうな。
2009年7月26日日曜日
教育費を完全に無料化するとどうなるか?(その1)
教育費を完全に無料化すると、どうなるか?
幼稚園から大学・大学院までの入学金・授業料・その他を完全に無料化しても、貧困層が得をすることは少ししかない。むしろ、富裕層が利するだけである。入学金・授業料を支払わなくてよい分、もともと豊かな富裕層は、塾・家庭教師にさらに多くの資金を投入できる。さらには、現在よりも自己資金で子どもを海外留学に派遣できる場合が増えるようになる。
その結果、教育費が完全に無料化しても、貧困層と富裕層の教育水準の差が小さくなるわけではないだろう。
では、塾・家庭教師などの費用も、政府なり、地方自治体なりが負担するようになれば、どうなるであろうか?
家庭環境や保護者の教育水準、ならびに本人の遺伝子が、子どもの学力に与える影響はもともと小さくなかったが、経済的な要因がなくなれば、こうしたものの差が学力に端的に反映されることになる。
塾・家庭教師などをも含めて教育費が、完全無料化すると、経済的な要因のために(つまり、貧乏だったからという理由で)、充分な教育が受けれらなかった、あるいは、大学に進学できなかったということがなくなってしまう。経済的要因を求めることが難しくなる。となると、勉強が得意ではないのは、ほとんどの場合、親あるいは本人のどちらか一方のせいか、もしくは親と本人の両方のせいか、いずれかということになる。
こんな世界は、ある種の人間にとって、苦しいだろうな。逃げ道がないからな。
2009年7月21日火曜日
高齢のホームレスは中卒ばかり!?
何年度の問題だったか忘れたが、早稲田大学法学部の国語の入試問題で出題された文章に、高齢のホームレスは中卒だけだということが書いてあった。
出題された文章は、『潮(うしお)』という月刊誌に掲載された論文から採ったものだった。筆者がだれだったかは忘れた。
高齢のホームレスは中卒ばかりだという事実を知ると、高校生であれ、中学生であれ、驚く。いや、大学生でも驚く。
ところが、これは驚くべき事実ではない。
もちろん、現在の高校進学率が98%程度であることを考慮に入れると、ホームレスの人々が中卒中心というのを知ると、驚いてしまうだろう。しかし、昭和20年代(1945-54)の高校進学率は20%程度のものだったことを考えると、その年代に高校進学を迎えた年齢層にとっては、中卒が「普通」であって、高校進学率は、今の大学進学率(男子の大学進学率は50%程度、女子は40%未満)よりも遥かに低く、したがって、高校を卒業した者はそれだけで、相当に高学歴であるといえる。
高齢のホームレスが中卒だけだとして、それは、知能や教養の欠如によるものとはかぎらないのではないか。当時は、そもそも、相当な富裕層でなければ、少々頭がよいくらいでは、経済的な壁によって高校に進学できなかった。
同時に、資産家の子弟であれば、多少、勉強が苦手であっても、勉強ができるとはいえないような私立高校に進学できたであろう。日本全体が貧乏だった時代には、よほどの金持ちでなければ私立学校には進学させられなかった。この点から、昭和20年代に高校に進学できたというだけで、頭がよかったか、資産家の子弟であったかのいずれかであるか、あるいは両方であるということになる。
高齢のホームレスが中卒ばかりというのは、ちょっとしかきっかけで道を踏み外した際に、もともと、財産を持たない社会階層出身者が中卒になっているから、そのまま、落ちてしまったということにすぎないのではないだろうか?
2009年3月16日月曜日
『"子"のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族』という本が出版されたことがあって……
1995年に洋泉社から『"子"のつく名前の女の子は頭がいい――情報社会の家族』が出版された。著者は金原克範である。
著者は姓名判断のたぐいを行なおうとしたわけではなく、「メディア論」として、執筆した。
セーラームーンだったと記憶しているが、少女マンガ雑誌の連載されているだけのときのプレゼントつきの読者アンケートの名前の分布("子"のつく女の子の割合など)が、セーラームーンのテレビ放送開始後では、急激に変化したという。"子"のつく名前の女の子が激減したというか、テレビ放送開始後に新規に応募するようになった女の子には、名前に"子"がつかないのが多かった。
『"子"のつく名前の女の子は頭がいい――情報社会の家族』という書名は、おそらく、編集者が売り上げが伸びるようにと、扇動的なものを狙ったものだろう。話題にはなったから、この編集者は立派であるのは確かである。
ただし、この本が出版される以前から、塾関係者の間の一部では、"子"のつく名前の女の子が、上位クラスに多くなり、下位クラスには少ないということは、経験的に知られていた。
十数校あるそこそこ大手の進学塾(小学3年生から高校生3年生まで在籍)の比較的規模の大きい教室では、中学3年生のクラスが、10クラスくらいあり、トップクラスの女子生徒の名前には、全員"子"がついていたし、ボトムクラス(いちばん下のクラス)では、どの女子生徒にも"子"はついていなかった。1990年くらいのことだ。
最近では、"子"がつく名前は、本当に激減しているから、この例のようなところはもはやないだろう。
金原克範によれば、こういうことだったと思う。
保守的な家庭ならば、女の子の名前に"子"のつくものを選ぶ傾向が強い。
保守的ならば、テレビをあまり見ない。
メディアの影響を受けにくく、コミュニケーションがとれる。
金原克範は、もうひとつ、さかのぼったところまで分析していなかった。保守的な家庭の子どもが頭がいい傾向にあるとして、それはなぜか?
生徒の通う学校の名簿などを見たり、その他の情報を仕入れた結果、つぎの仮説を立てることは可能ではないかと考えた。
高学歴ほど、晩婚傾向が強く、そうでない場合は、早く結婚する傾向がある。
35歳が命名したくなる名前と、20歳が思いつく名前とでは、明らかに傾向が違うはずだ。
1990年あたりで"子"のつく名前の女の子は、1980年あたりに生まれているとして、そのとき、父親が35歳とすると、1945年生まれだ。その年代の親からすれば、女の子の名前に"子"がつくのは自然である。
一方、1980年に父親が20歳だとすると、1960年生まれで、その年代だと、"子"のつく名前の女の子が同級生には半数くらいだ。
親の年齢が高いときに生まれた子どもは、ちょっと保守的な命名と感じるものになる傾向があるにちがいない。
35歳で結婚した男性の第3子は、40歳から45歳に生まれているとする。一方、20歳で子どもが生まれた男性がいる。
20歳以上の年齢の開きが、命名を左右する。40歳の男性は、20歳から25歳の男性がつける名前よりは、いくぶん古風なものを選ぶであろう。
つまり、"子"のつく名前の女の子は、名前によって頭がよくなるのではなく、1980年あたりに生まれた女の子の場合、高学歴の父親が選ぶ名前には"子"が多かったから、結果的に、"子"のつく名前の女の子は、家庭環境の点でも遺伝子レベルの点でも、頭のよい子が多かったということであろう。
最近、男の子の名前の場合、漢字一文字で、訓読みの名前の場合、頭がよい傾向があるような気がしている。漢字一文字で訓読みの名前というのは、たとえば、亮(あきら)、享(すすむ)、誠(まこと)、昇(のぼる)、晋(すすむ)などである。
ちょっと保守的なんだが、充分なデータはないし、根拠もないんだけど。
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自己紹介

- 掃除機庵主人
- 和歌山県, Japan
- 早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。
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