2009年5月14日木曜日

「大造じいさんと雁(がん)」:大造じいさんの年齢

 椋鳩十(むくはとじゅう)の「大造じいさんと雁(がん)」に登場する大造じいさんの年齢はいくつかという、どうでもよい問題がある。

 雁狩(がんが)りが行なわれていたころの話だ。残雪と名づけられた雁の棟梁(とうりょう)が登場すると、さっぱり雁が捕れなくなった。大造じいさんは残雪を捕らえようと、智慧をめぐらせるが、いずれも失敗する。智慧(ちえ)較べで、雁に負けるとは、大造は大丈夫か? 2年前に生け捕った雁を囮(おとり)にして雁の群れをおびき寄せ、猟銃で撃とうとするが、そこへ隼(はやぶさ)が雁の群れに襲いかかる。大造じいさんになついていた雁が逃げ遅れる。残雪は仲間を助けようと、隼に闘いを挑む。

 「大造じいさんと雁」は昭和16年「少年倶楽部」11月号に発表された作品である。60年以上も前だ。日中戦争(支那事変)真っ盛りで、真珠湾攻撃の数か月前に発表された作品だ。
 我が身を省みずに、仲間を救おうとするというストーリーには、戦意高揚(せんいこうよう)の匂いがする。こうした点から、この作品を読み解くというのはどうだろうか?
 椋鳩十は考えもしなかったのだろうけど、1941年12月にフライイング=タイガーズ(Flying Tigers 飛虎隊)というアメリカ合衆国義勇軍が投入され、加藤隼戦闘隊と死闘を繰り広げている。

「大造じいさんと雁」 日中戦争          
残雪           加藤隼戦闘隊
隼            フライイング=タイガーズ(アメリカ合衆国義勇軍)

 雁の棟梁の残雪が現実では加藤戦闘隊に相当するところが興味深い。

 で、大造じいさんの年齢についてである。
 小学校の教科書のよっては、前書きの部分が書き改めてあることがあるのだけれど、もとの文章では、大造じいさんは72歳で、残雪との闘いは35、6年前のことだという設定になっている。とすれば、大造じいさんが残雪と関わっていたのは、36歳あたりのことになる。
 これでは、もはや、「じいさん」とは呼べない。「大造にいさん」じゃないかと、以前から考えていた。「大造じいさんと雁(がん)」を読んで、60歳から70歳あたりのじいさんをイメージするのは、誤りであると考えていた。
 実際、挿絵(さしえ)には、60歳以上の老年には見えないものが多い。
 やはり、36歳程度の設定なのであろう。

 しかし、気にかかることがある。物語の中で、終始、「大造じいさん」と呼んでいる点である。それだけではない。単に「じいさん」としているところが、18箇所もある。「若き日の大造じいさん」のつもりなのだろうが、かなりの小学生は、本当に「じいさん」だと思ってしまう。

 そんなことを思っていたのであるが、新しい意見があった。大造じいさんの話を元に、作者の椋鳩十が、新たに、作り直したものだと考えるものである。

「わたしは、その折(おり)の話を土台として、この物語を書いてみました」

 と、前書きにある。実際の話は、あくまでも土台なのであるから、「大造じいさんと雁」で、残雪と闘う大造じいさんは、老人でもよいとする考えである。

 自分は、ずっと、大造さんが35歳前後のときの話だと思っていたんだがな。ま、椋鳩十自身、あまり、細かいことは考えないで執筆したのだろうけど。



2009年5月13日水曜日

正しいボールの投げ方について

 HAL496の小学4年生の生徒が、当校の建物の前で、ゴムボールを使ってキャッチボールをしていた。
 ひとりの投げ方が、「手投げ」というか、「女の子投げ」というか、そういう投げ方をしていたので、それが気になった。
 そこで、ついつい、のこのこと「正しい投げ方」をレクチャーした。

肘(ひじ)は肩から水平に延ばしたラインより下げない。
左手の掌(てのひら)を外側に向けて、たぐりよせるように引き戻しつつ、鞭(むち)のように右腕をしならせながら、最終的には右肩を相手に向ける形で動作を終える。
バドミントンのラケットを振る要領で右腕を振るとよいだろう。

 小学生の女の子に、こういうことを教えているというだけで、通りがかりの人が、にやにやしたり、笑いをかみ殺したりしていた。
 女の子に、正しい投げ方のレクチャーをするのは、みょうな感じがするのだろう。

 それはともかく、説明を繰り返しつつ、実際に投げてみせることにした。

 しまった。
 ゴムボールが軽いということを忘れていた。力が入りすぎて、ボールは3メートルほど先のアスファルトの路面にぶつかった。
 通りすがりの若者にふきだされてしまった。カッコわる。

 

2009年5月12日火曜日

Vanilla NinjaとTokio Hotel

 ある事情から、ガール=バンドの歴史的位置づけを調べていたら、Vanilla Ninjaというバンドがあった。エストニア出身の女性バンドだ。エストニア・ドイツ・オーストリア・スイス・ポーランドなどを中心に、人気のあるバンドらしい。エストニアはバルト3国のひとつで、ロシア・ラトビアに隣接し、海を挟んでフィンランドに面している。
 それにしても、なぜ、Ninjaなんだ。Vanilla Ninjaって、日本語に訳すと「バニラ忍者」だ。vanilla(ヴァニラ)の和名を調べたら、「バニラ」だった。トマトの和名が「赤茄子(あかなす)」であるように、おもしろい和名があればいいのにと思った。中国語なら、漢字だらけで訳せるぞ。「香草蘭忍者」となる。女の子バンドとは思えない名前になってしまう。
 なお、va-nil-laは第2音節に強勢(いわゆるアクセント)がおかれる。アクセント問題で、たまに出題されるよ。
 祖国エストニアではVanilla Ninjaというアイスクリームが売られている。
 こんなバンドだ。



 題名のとおり、なにかあると'Liar!'(嘘つき!)と叫んでいる。
 Dangerzoneという曲のヴィデオクリップでは、「賭場(とば)」という日本語の貼り紙が登場する。日本のマーケットを意識しているらしい。
 バンド名だけで、思いっきりストライクが入ってしまった。
 で、こういう動画もあるよ。


 ここ数年で、バンド名だけでストライクが入ってしまったものでは、ほかに、Tokio Hotelが挙げられる。「東京ホテル」と日本で呼ぶのかと思いきや、「トキオ=ホテル」となっていた。「東京旅館」とか、「東京飯店」「東京賓館」などでもいいと思うんだけど。
 ドイツの少年4人で結成されたバンドだ。20万枚売れれば大成功とされるドイツ音楽業界で60万枚を売り上げたことがある。日本の音楽市場の規模に換算すると300万枚売れたようなものである。
 ヴォーカルは、わざわざ、漆黒の髪に染めている。一般的な日本人よりも黒い髪だ。奇妙な印象を抱いてしまう。これを見ると、欧米人が茶髪の日本人を目にしたときに抱く印象というものが、少しはわかるのではないだろうか?
 なお、ho-telも第2音節に強勢がおかれる。高校受験のアクセント問題で出題されることがなくもないよ。


 英語の題名はMonsoon(モンスーン)だが、ドイツ語の題名はDurch den Monsun(モンスーンを越えて)だ。Durch den Monsunを英語に直訳すると、Through the Monsoonである。
 映像を見ると、若い女の子に人気があるというのも理解できる。たぶん、ゴスバンドとかいうものに分類されるんだろう。バンド名に「東京」を入れたのは、「日本語がかっこいいから」という理由によるものだそうだ。

 個人的に「東京」も「忍者」も、さほどかっこいいとは思わないのだけれど。
 日本って、人気者だな。

 Tokio HotelもVanilla Ninjaも、いずれも、英語のアルバムも出している。世界市場を考えると、英語で唄うことは必須なんだろうな。
 それに、ロックは、強弱で話す英語のような言語に適した音楽だということもあるんだろう。
 ドイツ語は子音が多すぎて、歌には適していない。子音には音の高低がないからだ。ドイツ語でオペラを聴くと、曲によっては、相当な数の子音をとばして発音している。歌詞を知らないまま聴くと、何を言っているのか、さっぱりわからないときがある。英語も子音が多くて、唄うのに適した言語だとは思わないけど。唄うに適しているのは、イタリア語や日本語だろう。

    

2009年5月11日月曜日

円が登場する図形問題に関する攻略法

 高校入試の数学の図形問題で、円が登場する場合、原則として、つぎの1点に注意するとよい。

 「中心O」が描き込まれているかどうか。

 「中心O」が描き込まれている場合、その問題は、中心Oから補助線を引かなければならない問題である。
 「中心O」が描かれていない場合、その問題は、中心Oを用いなくとも、解ける問題である
 「中心O」が描かれているにもかかわらず、中心Oを使うことがない問題が、ごく稀(まれ)に存在するが、これはたぶん、作問研究が充分でない教師による出題であろう。偏差値70を超える高校でさえ、中心Oを使わないのに描き込まれている問題があったこともあるが、どのレベルの高校であれ、「中心O」が描かれているにもかかわらず、中心Oを使うことがない問題というのは、例外中の例外である。
 一方、中心Oが描き込まれていないにもかかわらず、中心Oから補助線を引かないと解けないという問題は、これまで、1度も目にしたことがない。

 図形問題が得意な人からすれば、大したことのない指摘に思えるかもしれないけれど、じつは、相当に効果的である。

2009年5月10日日曜日

日本大学藝術学部に合格しやすいタイプ

 日本大学藝術学部(芸術学部、いわゆる日大藝術学部、あるいは日芸・日藝)に合格しやすいタイプというものがあるらしい。

 正直なところ、どうしても、日藝に合格したい場合、附属高校からの内部進学が最も確実性の高いルートであると考えている。
 とはいえ、一般入試で日藝を目指す場合、あらかじめ、どのようなタイプが合格しやすいのかを把握していれば、すこしは対策が練られるのではないだろうか?

 以下の情報は、日本大学藝術学部に在籍している学生から聞いた。情報の精度については、保証のかぎりではない。

日藝に合格しやすいタイプ

面接で「日藝にしか行きたくないんです」などと強くアピールするタイプ。
 大学は日藝以外は受験していないと訴えるのもよいらしい。「日藝一筋」は好感をもたれるらしい。
 放送学科出身の女子アナウンサーで、親の命令で受けさせられた、日藝以外の大学の入学試験ではすべてを白紙で出したという人がいる。
 「不肖・宮嶋」として有名な戦場カメラマン宮嶋茂樹は日本大学藝術学部写真学科出身だが、大学入試のときの筆記試験のできは、本人によれば、さほどよくなかったそうだ。ところが、面接試験のときに、尊敬するカメラマンはだれかと問われて、同じく日本大学藝術学部写真学科出身で、『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画ならびに同名の写真集・書簡集で有名な一ノ瀬泰造の名を挙げたところ、面接官が「一之瀬くんか……」をつぶやき、目をつぶったという。一ノ瀬泰造は、地雷を踏むことはなかったが、1973年にカンボジアでクメール=ルージュに処刑されていたが、それが判明したのは9年後のことである。宮嶋茂樹は1961年生まれで、18歳で受験したとすれば、1980年2月あたりに受験していることになるが、その時点では、一ノ瀬泰造はカンボジアで行方不明のままだったということになる。当時、尊敬するカメラマンとして一ノ瀬泰造の名を挙げるのは、相当に一ノ瀬泰造ならびに、日藝に入れ込んでいると判断できる。こういうタイプが合格しやすいのだろう。

親・兄弟姉妹が日藝出身である。
 これは、日藝というところがどういう学部であるかときちんと知ったうえで、志望しているということになるから、合格しやすいのであろう。日藝の実態を知ったうえで、受験するということは、たとえば、就職がよいわけではないからといって、大学を怨(うら)んだり、嘆いたりすることがないということが推測できる。また、授業料が、一般的な私立文系学部と較べれば(芸術系としては高くないのだろうけど)、廉(やす)くはないということもわかっている。

地方出身者は合格しやすいのではないか?
 地方出身者は、なんとなく合格しやすいというイメージがあるそうだ。
 日本全国から学生を集めたいという意向があってのことかもしれない。
 同時に、つぎのような推測も成り立ちそうな気がする。つまり、授業料と東京での下宿費用を考え、将来、得られるであろう生涯所得から考えると、いわば、経済学的観点から考えると、日藝に進学することはコスト=パフォーマンスがよいとはいえない投資である。このようなことを考えなければならないような経済力の持ち主の子どもは、そのそも、地方からやって来て、日藝を受験することはないだろう。となると、地方出身者は、おおむね、資産家の子弟である確率が高く、面接などでそうしたことが伝わると、合格しやすいのではないかという可能性も考えられる。芸術関係で芽が出るには、時間がかかりそうで、実際に売れるようになるまでに、生活費などの資金援助は欠かせないだろう。その点、親からの理解も得られている資産家の子弟であれば、東京で10年以上、がんばることもできよう。考えすぎかもしれないが。

どういうわけか神奈川県出身者が多い。
 実際のところ、理由は不明。1・2年生は所沢の校舎に通うので、埼玉県出身者も少なくないが、神奈川県出身者は、通学に時間がかかるわりには、いくぶん目につくそうだ。これも「日藝一筋」にあたるかもしない。自宅から通うとすれば、時間がかかる。にもかかわらず、日藝を志望するということは、それだけ熱意があるということにもなろう。千葉県出身者は神奈川・埼玉ほどではないようだが、経済水準が高くないからだろうか?

 以上、小耳にはさんだことを中心に、憶測・推測もまじえて書いてみた。あまり役に立っていないような気がしなくもない。

2009年5月9日土曜日

コンビニエンス=ストアでの商品の並べ方

 コンビニエンス=ストアでは、当然のことながら、賞味期限の早いものが前に置かれている。
 同じ商品を2列に並べる場合、古いもの、つまり賞味期限の近いものが向かって右側に置かれる。これは、日本人の大半が右利きなので、右側のものを取る習性があるからである。
 ということは、新鮮なものを食べたければ、後ろの商品を手に取る・2列に並んでいる場合は、左側のいちばん後ろにある商品を買うということをすればよいはずである。

 以上の話を、以前、HAL496の生徒たちに話したことがあった。
 高校生のひとりが、それ以来、コンビニエンス=ストアで、いろいろと観察したという。
 確かに、原則としては、そのとおりにならんでいるのだけれど、いい加減なアルバイト店員の多い店舗では、ランダムに並んでおり、商品の列のいちばん後ろ、あるいは左側の列のいちばん後ろの商品を原則どおりに取っても、必ずしも、新鮮なものを買うことになるとはかぎらないそうだ。

「結局、確実に、新しいものを買うには、賞味期限の日付をチェックしないといけないんですね」

 なるほど。
 だが、コンビニエンス=ストアごときで、なぜ、新鮮なものを買おうとするのかが、疑問であるぞ。もしも、健康に気をつけたいというのであれば、コンビニエンス=ストアで物を買うということが自体がまちがっている。ちゃんとした店で買えよと言いたい。ちゃんとした店は、あんまりないんだけれど。

2009年5月8日金曜日

日本一速い男:星野一義

 星野一義(ほしのかずよし)は自動車レーサーであった。1970年半ばから「日本一速い男」と呼ばれ出した。歌手の近藤真彦のレーサーとしての師匠である。
 1976年に日本でF1が初開催された。そのときの名称は「F1世界選手権・イン・ジャパン」だった。星野一義はそのレースに旧式のマシンでスポット参戦し、一時は3位を走行していた。しかし、予算の都合でタイヤの予備が充分にはなかった。「交換するタイヤがなくてリタイヤ」という今なら考えられない理由でリタイヤとなった。もしも、交換するタイヤがあったならば……とだれもが思った。
 ル=マン24時間レースでは、1990年に5位、98年には3位になっている。
 1970年代半ばからは、全日本F2選手権・富士グランチャンピオンレースシリーズ・全日本ツーリングカー選手権などのチャンピオンの常連となっていた。
 日本のF3000選手権に参戦した経験のあるF1レーサーたちからも一目を置かれていた。
 これほどの男だから「日本一速い男」と呼ばれたのだ。

 しかし、じつは、単なる速さだけなら、星野一義よりも速い男たちが、この日本にはいる。

 航空自衛隊のF15イーグル戦闘機パイロットたちだ。彼らは、俗に、イーグルドライバーと呼ばれている。最高速度マッハ2.5だ。換算すると、だいたい時速3000キロメートルだ。
 彼らこそが日本一速い男たちだ。

自己紹介

自分の写真
和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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