ラベル 軍事 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 軍事 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年6月21日土曜日

「アメリカの若者は犬死にではないか」とチェスター=ニミッツ提督は言った。

大東亜戦争終結直後に、チェスター=ニミッツ提督Admiral Chester W. Nimitzは、ハル=ノートHull noteの存在を知り、こう言ったとされる。

「われわれの若者と日本の若者は犬死(いぬじ)にではないか」

または、

「アメリカの若者は犬死にではないか」

ハル=ノートの執筆(しっぴつ)には、コミンテルン[=共産主義インターナショナル]のスパイが関与していた。大日本帝国が開戦せざるを得ないような内容であった。

コーデル=ハル国務長官the U.S. Secretary of State Cordell Hullは、内容を確認しないで、日本にハル=ノートを送りつけた。

終戦直後にハル=ノートを知ったチェスター=ニミッツは、しなくて済む戦争に巻き込まれた「アメリカの若者は犬死にではないか」と言ったらしい。

ウェブ上では、ときおり、上記のことばが引用されるのだけれども、引用元はないし、実際の英文ではどう言ったのか、気になるので、適当な英単語を並べて、ウェブで検索してみたが、元の英文が出てこない。現時点では、まったく見つからない。

「アメリカの若者は犬死にではないか」を認めると、「太平洋戦争」が不正義の戦争であった」ことになるから、アメリカ人は、たとえ、1次史料で知ったとしても、紹介はしたくないのだろう。

マッカーサー元帥がアメリカの議会で証言しているように、大日本帝国政府は、当時、ハル=ノートを受け入れれば、1000万人から1200万人の失業者が出ると考えていた。扶養家族(ふようかぞく)が、それぞれ、3人いるとすれば、

1000万人×(1人+3人)=4000万人
1200万人×(1人+3人)=4800万人

となる。

このくらいの餓死者(がししゃ)が出る勘定(かんじょう)である。

実際には、兼業農家や、農家の親戚(しんせき)から食べ物を譲(ゆず)ってもらえる者もあるだろうから、そこまではいかないかもしれないが、少なくとも、非戦闘員をも含めて、犠牲者を310万人に抑(おさ)えたのであるから、開戦は合理的な判断だったと言えなくもない。

ところで、明治維新の頃の日本の人口は3000万人くらいであった。1941年あたりの日本人の人口は、所謂(いわゆる)、内地人に限定すると、7200万人くらいだから、4000万人を引くと、3200万人となる。これは、鎖国していたときの日本、すなわち、貿易をせず、食糧を輸入しない場合に日本で生きていける人間の数に近い。

したがって、ハル=ノールを受け入れれば、4000万人以上が餓死(がし)するという予測は、あながち、的外(まとはず)れなものではないようである。

大東亜戦争は自存自衛(じそんじえい)の戦争であり、祖国防衛の戦争であったから、日本の若者の戦死は、決して「犬死(いぬじ)に」「無駄死(むだじ)に」とは考えづらい。

一方、アメリカの若者は、狂気の大統領ルーズヴェルトとハル=ノートのせいで、巻き込まれなくてもよい戦争に巻き込まれ、戦闘神経症となったり、戦死したりした。

一般には、英国の要請(ようせい)で、アメリカ合衆国がヨーロッパ戦線に参戦するための口実として、ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結んでいる大日本帝国に攻撃されれば、同盟国であるドイツを攻撃できる。その狙(ねら)いがあったとされる。

また、アメリカ合衆国は、満州国や、南満州鉄道の利権を手に入れ、金儲(かねもう)けをしたいという考えもあったようである。

しかも、アメリカ合衆国は、日本人のことを、そのほかのアジア諸国の住人の知能の低さや民度の低さから判断して、同じようなものだと勘違(かんちが)いしていた。

だから、大日本帝国の戦闘機による攻撃によってボコボコにされたとき、パイロットはドイツ人にちがいないと信じた。アジア人なのだから、日本人がそれほどのことができるわけがないと思い込んでいた。

アメリカ合衆国は、最終的には、戦費(せんぴ)がなくなり、鉄鋼もなくなって、コンクリートを使って船舶(せんぱく)を建造しなければならなくなり、人手(ひとで)が足らず、女性パイロットを登用(とうよう)しなければならなくなった。アメリカ合衆国の実情はこんなものであった。

原子爆弾が作れなかったなら、アメリカ合衆国は大日本帝国に負けていたにちがいない。

原子爆弾を作った主要メンバーは、フェルミニを除けば、ユダヤ人であるし、フェルミニの奥さんはユダヤ人だった。この連中は、ユダヤ人迫害のドイツに投下するために原子爆弾を開発したのだろう。

ところが、ドイツが早々に降伏したものだから、投下先がなくなったということもあるし、大日本帝国は降伏しないままだということから、日本に投下したのではないか?

大日本帝国ほど、ユダヤ人を助けた民族はないんだけどな。

歴史ってものには、こういう側面はあるのだろう。

それにしても、日本の犠牲者は、自存自衛のために戦ったものであり、それほど犬死にという感じはしない。

最も哀(かな)しいと個人的に思うアメリカ合衆国軍の戦死者は、武器がなくなった帝国陸軍の兵士が手作りで弓矢を拵(こしら)え、その矢によって戦死したアメリカ兵である。

戦争の大義(たいぎ)もなく、祖国防衛のためでもない戦(いくさ)で、太平洋の向こう側に送り込まれ、手作りの弓矢で戦死というのは、悲しすぎる。

2014年5月31日土曜日

帝国海軍は、どうしても航空機主体になれなかった。

戦艦大和がアメリカ合衆国の航空部隊に沈没されたことなどから、航空機主体にならなかった帝国海軍を批判する人は少なくない。

帝国海軍の航空部隊は、マレー沖海戦で、巡洋戦艦レパルスと、当時、世界最強とされた戦艦プリンス=オヴ=ウェールズとを撃沈した。

当時、作戦行動中の戦艦を航空機は沈められないと考えられた常識を打ち破ったのである。

プリンス=オヴ=ウェールズ撃沈の報告を受けた英国首相ウインストン=チャーチルは、思わず、電話の受話器を落とした。

作戦行動中の戦艦を航空機が沈められることを証明した帝国海軍が、航空機主体にならなかったのは、頭がおかしいと考えるようである。

ところが、マレー沖海戦に関して、当初、山本五十六は、レパルスを沈没させることができても、プリンス=オヴ=ウェールズは無理だと考えていた。プリンス=オヴ=ウェールズが撃沈されたのも、航空機から放たれた爆弾か、あるいは魚雷が、1発、いいところに「まぐれ」で当たったようである。

マレー沖海戦では、練達(れんだつ)の操縦士(そうじゅうし)が揃(そろ)っていたから、爆弾・魚雷の命中率は、低いわけではなかったけれども、戦争中、全体としての命中率は10%くらいだった。

資源がない、戦費(せんぴ)がない状態で、すこぶる高価な爆弾を浪費するわけにはいかない。命中率10%だと、航空機主体には、なかなか踏み切れるものではなかろう。

そうなると、相手の戦艦の射程距離外(しゃていきょりがい)から、つまり、相手から砲弾を浴びせられない安全なところから、砲弾を浴びせるという、所謂(いわゆる)大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とならざるを得ない。それに、爆弾・魚雷よりも命中率は高かったであろうし。

アメリカ合衆国の航空隊は、戦艦大和を撃沈するために、400機近い航空機を繰(く)り出した。アメリカ側の資料では、魚雷58本のうち15本前後命中確実、爆弾77発のうち10発以上命中となっているが、一方、「軍艦大和戦闘詳報」によれば、魚雷10本、爆弾5発である。

アメリカ側の資料で計算すれば、

(15本+10発)÷(58本+77発)≒18.5%

となるが、「軍艦大和戦闘詳報」に基づけば

(10本+5発)÷(58本+77発)≒11.1%

となる。

戦闘機による掩護(えんご)のない大和を相手に、こんな命中率だというのは、日本側の資料が正しければ、航空機主体の戦闘は、経費(けいひ)の点で実に効率が悪いということになる。

それにしても、ヴェテラン=パイロットを損失し、未熟なパイロットが多くなった日本のトータルでの命中率とさほど変わらないというのは、アメリカ軍のパイロットの技量(ぎりょう)が低いということになる。

また、熟達したパイロットを失い、練度の低いパイロットが多くなった1944年あたりでは、爆弾・魚雷の命中率は、10%以下であったろうことは想像に難(かた)くない。命中率の低さを補うための大量の物量作戦が実施できない帝国軍は、海軍による神風特別攻撃や陸軍航空隊の振武隊(しんぶたい)による特別攻撃をするしかなかったのは仕方のないことだろう。

いや、むしろ、最善の手段だったかもしれない。

関連記事
神風特攻隊は、本当は、きわめて有効で効率的な作戦なんじゃないかと思ったのだが……

トワイニング クオリティプリンスオブウェールズ 100g
片岡物産
売り上げランキング: 15,009



2014年5月22日木曜日

真珠湾攻撃の日はアメリカ合衆国では12月7日である。

真珠湾攻撃は、日本人なら、12月8日だと思っているが、アメリカ合衆国民は12月7日だと思っている。

これは当然のことで、ハワイ時間では、12月7日のことであったからだ。

「アメリカでは真珠湾攻撃は12月7日のできごとだった」と聞いて、時差に思い至(いた)らない人は、多角的にものごとが見られない人なんだろうな。

意外と、そういう人は多いんだよね。

2014年5月10日土曜日

大東亜戦争に関する帝国軍に関するウーエ‐ウエットラー(Franz Uhle-Wettler)の見解

こういう見解もある。

---
平成5年6月25日付の産経新聞「ベルリン物語」

ボンの郊外に住むドイツ軍退役将軍ウーレ・ウエットラー氏とインタービューした際、「この事だけは、どうしても日本の読者に伝えて欲しい」と頼まれた。この欄でその要旨(ようし)をお伝えしたい。

ウエットラー氏は北大西洋条約機構(NATO=North Atlantic Treaty Organization)の作戦本部参謀や戦車部隊司令官を歴任したが、戦争史を研究する学者でもある。退役後、太平洋方面(フィリピン、シンガポール)に於ける日本軍の作戦というテーマに特に興味を持った。
「純粋に軍事史的見地から調べた結論から言うと、兵士の訓練度、司令官の質、全ての面で日本軍の優秀さは群(ぐん)を抜いていた。民間人に対する対応も、占領軍であるにも関わらず、実に礼儀に富んだものであった」

ウエットラー氏は、ドイツの新聞(東京発)が戦時中の日本軍の残虐さを強調する為(ため)「余(あま)りにも自分の研究とは違い過ぎる」と、義憤(ぎふん)を感じたというのだ。

「戦争目的(大東亜共栄圏)や敗戦国であるという点から日本軍の残虐行為(ざんぎゃくこうい)が強調されるのでしょうが、純粋に軍事史の具体例として検証した場合、むしろ米軍の方の残虐性(ざんぎゃくせい)が目立つ」 
---

この記事の本筋(ほんすじ)は関係ないが、Franz Uhle-Wettlerは、標準ドイツ語の発音では、フランツ=ウーレ-ウエットラーではなく、フランツ=ウーレ‐ヴェットラーではないのか。

ドイツ語は、方言が多く、同じ綴(つづ)りの名前でも発音が違うことが多い。

ドイツの企業にシーメンスSiemens AGという多国籍企業があるが、ズィーメンス=アー=ゲーであるはずであるが、日本では「シーメンス」と呼ぶことが圧倒的多数である。

この点に関して、英語読みをしていると考える場合もあるようだが、違うんじゃないかな。方言を採用した読み方であるようだ。

高等学校の日本史の教科書では「ーメンス」、世界史の教科書では「ーメンス」とされている場合が多数派である。

それはともかく、いろいろと調べたり、書物を紐解(ひもと)いたりすると、日本軍は、実に真面目な軍隊だったという印象がある。戦時国際法に反しないようにと努力していた節(ふし)が窺(うかが)われる。

2014年4月27日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男(その4)

坂井雅夫少尉(階級は終戦時)は、昭和11年(1936年)11月27日に第1期技術生徒のひとりとして卒業した。

当時、成績のよい者は海外に、それほどでもないものは内地勤務となった。

坂井雅夫は、第1志望の飛行第16連隊付となった。飛行第16連隊は満洲牡丹江(まんしゅうぼたんこう)*1に昭和10年(1935年)12月から拠点を構えていた。
*1:牡丹江=現在の黒龍江省牡丹江市(こくりゅうこうしょうぼたんこうし)である。

海外勤務で、第1志望どおりの任地(にんち)ということから、在籍中の成績がよかったであろうことが窺(うかが)われる。

飛行第16連隊を第1志望にしたのは、連隊長が、のちに陸軍航空本部長となる寺本熊市大佐であったからだろう。寺本熊市は、和歌山県伊都郡隅田町(いとぐんすだちょう)の出身で、坂井雅夫少尉は隣の橋本町(はしもとちょう)出身だからだ。

満洲に出発する前に、橋本町に帰省(きせい)した。当時の郷土新聞(きょうどしんぶん)につぎのような記事が掲載された。

---
郷党(きょうとう)に嘱望(しょくぼう)されて空軍最前線へ坂井雅夫君出征(しゅっせい)

既報(きほう)陸軍航空技術学校第一期技術生は本県では二名だが、その一人橋本町出身の坂井雅夫君は優秀な成績で卒業し、伍長勤務上等兵(ごちょうきんむじょうとうへい)の肩章(けんしょう)も新しくこのほど実家に帰省(きせい)したが、同君は伊都中学四年在学中の昭和九年二月採用され……殊(こと)に橋本では航空界に送る最初の鳥人として……満ソ国境◯◯◯の寺本部隊長所属として非常時日本国防空軍の最前線に出征するもので……歓呼(かんこ)を浴びて盛んなものであった……

---

満ソ国境◯◯◯」の◯◯◯は、牡丹江のことだろうが、軍事機密ということで、伏せ字(ふせじ)になっているらしい。

日教組(日本教職員組合)による反日自虐史観教育を受けた者からすると、初めて上記の記事を目にしたときには、信じられなかった。

満洲時代の話にはいろいろとおもしろいものがある。

まず、坂井雅夫は飛行第16連隊軽爆班第3中隊に配属された。93式双軽爆撃機の機付(きつき)*2となり、同時に、機上射手も務めた。訓練や戦闘では機上射手として機銃掃射(きじゅうそうしゃ)などを行ない、飛行場に戻れば、即座に整備をしなければならなかった。
*2:機付=特定の機体の整備担当を示す。

機上射手としての初陣(ういじん)は昭和13年(1938年)の夏だった。松花江(しょうかこう)*3の畔(ほとり)にある佳木斯(ジャムス)*4から東へ200キロメートルのところに位置する、富錦(ふきん)*4の南方の湿地帯に散在する小島を拠点とするゲリラ討伐に出動した。
*3:松花江=アムール川(黒龍江)最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(ちょうはくさん)(朝鮮語名:白頭山(はくとうさん))山頂火口のカルデラ湖(天池)から発する。
*4:佳木斯(ジャムス)=現在の支那大陸にある社会主義国家の最東部に位置する都市。
*5:富錦=黒龍江省東北部、松花江下流南岸の三江平原の中腹に位置する。佳木斯(ジャムス)より更に東に位置する。現在は、松花江下流沿岸の内陸河港と農地開墾の基地である。

満洲のような極寒地(ごっかんち)での整備はたいへんだったらしい。

気化器ドレンのプラグを軽く締(し)めたら、首部がポロリと折れたりして、内地(ないち)では考えられないことがよく起きたという。

酷寒地なので、炭火おこし当番は起床2時間前に起き、5俵(ごひょう)または6俵(ろっぴょう)の木炭に火を熾(おこ)し、事前に暖かくしておかなければならないが、坂井雅夫は2回、一酸化炭素中毒になった。

牡丹江のカッフェーで痛飲して、徒歩帰営の時刻が過ぎてしまい、中隊長に叱責(しっせき)され、翌日の射撃成績が散々で、昨夜の泥酔が原因だと怒った中隊長によって、零下30度の中、3回連続して、風防のない機上射撃をさせられ、顔が凍傷(とうしょう)になった。応急処置により、大事にはいたらなかったが、両眼のまぶたは黒枠のかさぶたになり、それがむけて赤べたになり、その繰り返しが1か月半、続いた。格好(かっこう)悪くて堪(たま)らなかったという。

兵器紛失もやっている。射撃訓練中に勢いよく銃を左に旋回(せんかい)させた瞬間に、右の扇形弾庫が落ちてしまった。着陸後、2台のトラックに分乗して、捜索(そうさく)を行なった。飛行場から5キロメートルほどの落下地点とおぼしきあたりは、梨花(りか)が咲き乱れており、紛失した坂井雅夫は必死で扇形弾庫を捜していたが、本人以外は、よいお花見だと大はしゃぎとなり、梨花の大枝を持ち帰って、中隊玄関の両脇に飾りつけた。支那事変の最中(さなか)にこんなことをやっていたんだぜ。

密閉風防(みっぺいふうぼう)はなく、後方銃座勤務(こうほうじゅうざきんむ)は寒さとの闘いであった。電熱服(でんねつふく)を着るのだが、断線すると凍傷になる。ショートして腰に火傷(やけど)を負ったことがあった。

着陸直後に整備を始めなければならないので、機上で凍(こお)りついた弁当を食べたこともある。

関東軍大演習時に、尾輪(びりん)がパンクしたが、予備がなかった。チューブのかわりに布を固く詰め、水を含ませると、凍りつき、即席のソリッド尾輪となり、無事、演習を終えた。まあ、この人は、部品がなければ、日用品で戦闘機や爆撃機を修理するような人だからなあ。

いろいろと苦労したようだが、本人によれば、のちに機関係(きかんがかり)として担当した三式戦闘機「飛燕」で味わった精神的苦悩に較べれば、まだましだったと述べている。「飛燕」のエンジンを「ガラスの心臓」と揶揄(やゆ)する人がいるくらいだから、よっぽどだったんだろう。

一方で、たのしいこともあったらしい。

夏には、飛行演習後に、水泳兼魚獲りをしたが、これがダイナマイト漁*6だった。上流でダイナマイトを投入し、下流で二列横隊で待つ兵士たちが、気絶したり、死んだりして浮き上がった魚をつぎからつぎへと手づかみで岸へと投げ上げる。2回やると、俵(たわら)にして3杯(さんばい)くらいは獲(と)れたという。
*6:ダイナマイト漁は生態系に影響を与えるということで、今の日本では禁止されている。

美しいロシア娘に惹(ひ)かれて、喫茶兼食品店に入り、生まれて初めてソーセージを目にするが、何なのかわからない。食べ物だとわかり、註文(ちゅうもん)したのはいいが、一口食べて、どうにも口にあわず、残した。ロシアのソーセージがどれほど不味(まず)いのか、気になるところだが、昭和10年代前半の日本人には、馴染(なじ)みのない味だったということにすぎないかもしれない。

また、演習の際に足を運んだ喫茶店の可愛い娘から手紙が届き、もう一度、吉林(きつりん)に行きたいと胸をわくわくさせたこともあった。

坂井雅夫は整備兵としてすこぶる優秀だったのだろう。彼が担当した93式双軽爆撃機第89号機は、中隊長機や編隊長機となることが多かった。

当時の工作技術と整備技術では100時間で発動機(はつどうき)交換*7となる。彼の整備した機体は、4回の発動機交換を経(へ)て、年間400時間無事故だった。
*7:発動機はエンジンのこと。

そのことで表彰状を受け取っている。

---
表彰状 

牡丹江松岡部隊八木隊陸軍航空兵軍曹 坂井雅夫 


右之者(みぎのもの)昭和十二年三月七日以降九三双軽第八十九号機機長トシテ同機ノ整備ニ専念シ累次(るいじ)ノ猛戦闘討匪(もうせんとうとうひ)ハ勿論(もちろん)、教育訓練ニ支障ナク全機能ヲ発揮(はっき)シ累計(るいけい)四百時間ニ至(いた)レリ。此ノ間四回ニ亘(わた)リ発動機ノ交換ヲナシタルモ、常ニ好調ナル成績ヲ持続シアリ。是(これ)右(みぎ)整備員ノ努力ノ賜(たまもの)タル事ヲ立証ス。仍(よっ)て茲(ここ)ニ之(これ)ヲ表彰ス。 


昭和十三年四月二日 牡丹江松岡部隊八木隊長 八木斌

---

軽爆撃機とはいえ、400時間もの年間飛行時間にして、まったく故障しなかったのは、当時としては、そして、現在でも、驚異的であろう。今まで知らべたところ、これを超える記録が見つからないので、おそらくは、帝国陸軍航空隊の最高記録だろう。

やるな、93式双軽爆撃機第89号機(←そっちじゃないだろ)。

93式双発軽爆撃機










帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1


日本陸軍試作機物語 陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

2014年4月24日木曜日

海上自衛隊のカレーのレシピの単位



2014年4月19日に「第2回護衛艦カレーナンバー1グランプリ in よこすか」が開催された。15もの艦艇や部隊が参加しただけでも、壮観なものだが、イージス=システム搭載護衛艦が5艦も参加していた。

グランプリに輝いたのは、潜水艦部隊による「濃厚味わいカレー」で、そのレシピが海上自衛隊のウェブサイトで公開されていた。

潜水艦部隊 濃厚味わいカレー レシピ

レシピでは、たとえば、「白ワイン 23mL」などと表記されている。「白ワイン 23cc」ではない。

「mL」表記のレシピは、記憶にないのだが、海上自衛隊の伝統的な表記方法なのだろうか?

それにしても、6分の5もの艦艇が集結して、カレー大会をやっているとは、よその国の人は信じないだろうな。

海上自衛隊では毎週金曜日にカレーを食べるのだが、昔は、土曜日の昼食にカレーを食べていたんだよ。











調味 よこすか海軍カレー180g×2個
調味商事
売り上げランキング: 1,561

オフィスシン 江田島海軍カレー 200g
オフィスシン
売り上げランキング: 17,030

2014年3月30日日曜日

インパール作戦(ウ号作戦)は終わらない。果たされたインドとの約束。

昭和18年10月23日、日本政府はチャンドラ=ボースが主席を務める自由インド仮政府を承認し、仮政府の目的達成を極力(きょくりょく)、支援(しえん)する帝国政府声明を発した。

その翌日である昭和18年10月24日に自由インド仮政府はアメリカ合衆国・大英帝国に宣戦布告した。

そして、チャンドラ=ボースの申し出に応じて日本政府は占領下のアンダマンとニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属(きぞく)させた。

2週間後の昭和18年11月6日、大東亜戦争(だいとうあせんそう)のさなか、東京で大東亜会議が開催された。

大東亜戦争を完遂(かんつい)し、大東亜を欧米列強から解放するということを謳(うた)った「大東亜宣言」を採択した。

その後、ビルマのバー=モウ総理の提案で、インドを大英帝国から解放しようとしているチャンドラ=ボースに、完全なる支援(しえん)を与えるという宣言が追加された。

そして、自由インド仮政府のチャンドラ=ボースがこう語った。

「インドにとりましては、大英帝国の帝国主義に対する徹底的抗戦以外に途(みち)はないのであります」

対英妥協(たいえいだきょう)は奴隷化(どれいか)との妥協を意味するものである。

奴隷化との妥協は決して行なわない。

大日本帝国はインドの独立支援(どくりつしえん)を国際的に約束したのである。

大東亜会議の2か月後、昭和19年1月にインパール作戦が決定され、同年3月8日に発動された。

指揮(しき)を任(まか)されたのはビルマ方面軍第15軍司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将であった。

第15軍の3個師団とインド国民軍第1師団で、コヒマとインパールを陥落(かんらく)させる。

補給は充分ではなかった。

作戦前に敵の爆撃によって物資の大半を焼失し、兵站能力(へいたんのうりょく)は牟田口廉也中将の希望の2割にも満たないものであったが、インパール作戦(ウ号作戦)だけではなく、どの戦場でも物資不足との戦いであった。

牟田口廉也中将はコヒマを攻略した後、ただちに第31師団をアッサム鉄道が通る大英帝国軍の物資集積地であるディマプールへ急行させるように考えていた。

ディマプールを占領すれば、大日本帝国陸軍は武器・弾薬・食糧、戦いに必要な物資が手に入る。

アラカン山脈を越えていく第31師団と第15師団は、軽装備を余儀(よぎ)なくされたが、コヒマとインパール攻略後は、自動車道が開通し、補給が受けられる。

牟田口廉也中将は作戦期間を3週間から1か月とし、不足分は「敵に糧(りょう)をよる」とした。

敵の虚(きょ)をつく迅速(じんそく)な進撃がこの作戦の要(かなめ)であった。

第33師団とともに国境を越えたインド国民軍は、祖国にインドの国旗を掲(かか)げることができた。

ほかの師団よりも1週間早く作戦を開始した第33師団は、3月13日、インパールの南のトンザンで、混乱した英印第17師団を包囲した。

しかし、前線から「玉砕覚悟(ぎょくさいかくご)で戦う」という主旨(しゅし)の電報が届いたため、「玉砕寸前」と誤解した師団長の柳田元三中将(やなぎだげんぞうちゅうじょう)は包囲を解き、敵をインパール方面に逃がしてしまった。

さらに柳田元三(やなぎだげんぞう)中将は、敵への追撃を10日間も躊躇(ちゅうちょ)し、インパール手前に防御陣地(ぼうぎょじんち)を構築(こうちく)する時間を与えてしまった。

一方、3月15日から進撃した第15師団は果敢(かかん)に攻め、3月28日にはコヒマ―インパール道を遮断(しゃだん)したが、第33師団の動きが遅く、一手でインパールを攻撃する破目(はめ)になった。

同じく3月15日に、コヒマを目指し進撃を開始した第31師団は、宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将率(ひき)いる歩兵第58連隊が、3月21日にウクルルを占領(せんりょう)し、敗走(はいそう)する敵を追ってサンジャックに突進した。

しかし、サンジャックは第15師団の担当地区であり、このときの宮崎繁三郎少将の1週間のロスが、後で大きく響(ひび)くことになった。

その10日後の4月5日に第31師団はついにコヒマを占領した。

牟田口廉也中将はコヒマの第31師団に、ただちにディマプールを攻略するように命じた。

コヒマとディマプールは、徒歩で2日、大英帝国軍の補給基地はすぐそこである。

しかし、ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)中将が、ディマプールへの突進命令を取り消してしまった。

ビルマ方面軍の作戦案には、アッサム州ディマプールまでの進出は含まれていなかった。

大英帝国軍は体制を整(ととの)え、空からも補給を受け、迅速(じんそく)さを欠いた日本軍は、やがて、不利になっていった。

さらに、第31師団の佐藤幸徳(かとうこうとく)中将は、6月1日に補給途絶(ほきゅうとぜつ)を理由に無断で撤退(てったい)を開始した。

佐藤幸徳率いる第31師団に置き去りにされた第58連隊や、背中を敵に晒(さら)された第15師団は、限られた物資で懸命に1か月以上戦ったが、矢尽(やつ)き刀折(かたなお)れ、7月13日、命令を受け、撤退(てったい)を開始した。

大日本帝国陸軍の退却路(たいきゃくろ)には無数の日本兵の遺体がならび、「白骨街道(はっこつかいどう)」と呼ばれた。

そもそも、インパール作戦の発端(ほったん)は、ビルマの防衛にあった。

前年に、オード=ウィンゲートOrde Wingate准将(じゅんしょう)率(ひき)いる挺身隊(ていしんたい)が、突如、ビルマの防衛線内に侵入し、チンドウィン河方面の地形が、必ずしも敵の作戦行動を阻害(そがい)しないと知らされた。

その結果、それまでの防衛方針を一擲(いってき)して、インパール方面に対する果敢(かかん)な侵攻作戦を決意するようになった。

政略的(せいりゃくてき)にもインドの独立を望む東條英機(とうじょうひでき)首相や大本営(だいほんえい)もインパール作戦を支持し、戦局の挽回(ばんかい)を期待した。

チャンドラ=ボースら、自由インド仮政府にとっても、祖国の地にインド国旗を掲(かか)げるため、大日本帝国陸軍との協同作戦を強く要望した。

インド国民軍Indian National Armyの第1師団が参加し、大日本帝国陸軍の第33師団の後方についた。

牟田口廉也中将は、戦闘に不慣(ふな)れなインド国民軍を大英帝国軍の正面に当てるのは危険と考え、インド国民軍を成功の寸前で投入するつもりであった。

しかし、インパール作戦の成功が難しくなった状況において、チャンドラ=ボースはインド国民軍だけでもインドに進攻すると作戦継続を強く要望した。

そのことが、ビルマ方面軍の作戦中止の判断を遅らせ、雨期に入って、退却時の損害を甚大(じんだい)にした。

それがインパール作戦(ウ号作戦)だった。

インパール作戦(ウ号作戦)における第15軍の最大の敗因として、南方軍総参謀副長(なんぽうぐんそうさんぼうふくちょう)稲田正純(いなだまさずみ)少将が、牟田口廉也中将のアッサム州までの進攻を無謀(むぼう)として、作戦時期を大幅に遅らせ、妨害したことが挙(あ)げられる。

稲田正純(いなだまさずみ)少将は、インパール作戦(ウ号作戦)に参加する第15師団をタイに留(とど)めて、道路工事を命じた。

結局、第15師団は到着が大幅に遅れた上、その半分の戦力しか参加できなかった。

そして、作戦決行の直前の3月5日、大英帝国のオード=ウィンゲートOrde Wingate准将の率いる空挺旅団(くうていりょだん)が、第15軍の後方に降下し、インパール作戦(ウ号作戦)中、大日本帝国陸軍の後方を脅(おびや)かし、第15軍の補給を妨害した。

また、雨期(うき)に突入してしまい、河が氾濫(はんらん)して、退却(たいきゃく)が難渋(なんじゅう)し、被害を大きくした。

作戦発動の遅れが致命的(ちめいてき)であった。

さらに第33師団の師団長柳田元三(やなぎだげんぞう)中将や、作戦途中で前代未聞(ぜんだいみもん)の無断撤退(むだんてったい)をした第31師団の佐藤幸徳(さとうこうとく)中将も、インパール作戦(ウ号作戦)に対して、懐疑的(かいぎてき)で、作戦中も終始消極的(しゅうししょうきょくてき)だった。

インパール作戦(ウ号作戦)に反対の幕僚(ばくりょう)や現場の指揮官は補給を懸念(けねん)していたが、インパール作戦は急襲(きゅうしゅう)を旨(むね)とする作戦である。だから、師団の指揮官が作戦に消極的で躊躇(ちゅうちょ)すれば、この戦いには勝てない。

名将と言われた第31師団第58連隊の宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将は、サンジャック攻略に時間を費(つい)やし、当時、増援(ぞうえん)がなく、手薄(てうす)だったコヒマを急襲する機会を逃(のが)した。

それでも、宮崎繁三郎少将は敵の物資を奪い、装備を充実させながら、勝ち進んでいった。

戦後、宮崎繁三郎少将は、当時、第58連隊は士気も装備も充分で、ディマプール進撃中止命令は疑問だったと語っている。

作戦中盤以降の物資不足はどの戦線でも見られたが、戦利品で、武器・弾薬や食料を確保していたのは、第58連隊だけではなかった。

牟田口廉也中将の「糧(りょう)は敵による」は行なわれていた。

そんなきわどい作戦が、なぜ、実行されたのか?

牟田口廉也中将や大日本帝国政府が戦争全体の好転を諦(あきら)めていなかったからである。

大日本帝国が大英帝国を追い払い、インドを独立させるということは、インドからの援蒋(えんしょう)ルート、つまり蒋介石(しょうかいせき)を援助するためのルートを遮断(しゃだん)し、重慶(じゅうけい)の蒋介石(しょうかいせき)を屈服(くっぷく)させ、大英帝国本国への補給を遮断(しゃだん)し、大英帝国を屈服(くっぷく)させることになる。

さらに、大英帝国を脱落させることにより、アメリカ合衆国の戦争継続意志を削(そ)ぐという考えがある。

このインドへの侵攻、そして、インド独立に関する基本構想は、開戦直前の11月に出された「対米英蘭蒋(たいべいえいらんしょう)*戦争終末促進に関する腹案(ふくあん)」に明記されている。
*米=アメリカ合衆国、英=大英帝国、蘭=オランダ(和蘭陀)、蒋=蒋介石率いる国民党軍

すなわち、戦争反対のアメリカ合衆国国民を激怒させた山本五十六(やまもといそろく)の真珠湾攻撃などは、この基本構想に全く反するものであり、インパール作戦(ウ号作戦)こそが基本構想にかなうものであった。

大日本帝国がインド独立のため、チャンドラ=ボースら、インド国民軍を支援したのは、大日本帝国の戦略のためでもある。

決して、大日本帝国の一方的な善意のだけでインド独立支援を約束したわけではない。

日本人のアジア解放という使命感と、大日本帝国の自存自衛(じそんじえい)の戦いと、インドの人々の独立したいという思いが一致したからである。

戦後のGHQは、日本人を自虐史観に洗脳するために、インパール作戦の真実を隠し、惨敗(ざんぱい)だけを強調し、「愚(おろ)かな作戦」としなければならなかった。

大英帝国第14軍司令官:ウィリアム=スリムWilliam Slim中将

大日本帝国の軍司令官のなすべきすべては、コヒマに一支隊(いっしたい)を残し、師団の主力をもって、猛烈にディマプールを衝(つ)くことであった。

幸いにも佐藤幸徳(さとうこうとく)師団長はほとんどそれをしなかった。

大英帝国ディマプール方面第33軍団長:スタフォード中将

このとき、もし、大日本帝国軍がコヒマからディマプールに果敢(かかん)に急進していたのなら、(作戦全体において)大英帝国に勝利はなかった。


大英帝国軍東南アジア総司令部司令官:ルイス=マウントバッテンLouis Mountbatten大将

英印軍に非常に幸運だったのは、大日本帝国軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。

すぐに第2目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、そのころはまだ兵力の集中ができていなかった連合軍はこれを防ぐ方法はなかった。

ディマプールで補給を済ませれば、大日本帝国軍はインパール道路をコヒマで切るのと同じような有効さで切ることができる。

さらにもっと偉大な全アッサム補給線の切断ができ、対支那援助も北部方面への補給も不可能になる。

英国の軍事史研究者で、20世紀を象徴する戦略思想家:リデル=ハートSir Basil Henry Liddell-Hart

現地軍司令官牟田口廉也将軍が、ディマプール攻略を目指して進撃許可を求めたのに対し、大日本帝国軍ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)将軍は、その許可を与えなかった。大日本帝国軍がここを急襲して占領していれば、インパール救援のための大英帝国軍による反撃は、阻止され、不可能となっていたであろう。


第2次世界大戦後、大英帝国はインパール作戦(ウ号作戦)
に参加したインド国民軍の3名の将校(しょうこう)を、反逆者(はんぎゃくしゃ)として、処刑(しょけい)しようとした。これがインド国民の怒りを買い、抗議運動がインド全域に広がっていった。

この抗議運動は大英帝国軍のインド兵の反乱にまで発展し、事態収拾(じたいしゅうしゅう)が困難になった大英帝国は統治権(とうちけん)を譲渡(じょうと)し、昭和22年8月15日、日本の終戦から2年後に、インドはパキスタンとともに独立した。

英国ロンドン大学教授:エリック=ホプスバウ博士

インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるものではなく、大日本帝国軍とチャンドラ=ボースが率いるインド国民軍が協同して、ビルマを経由してインドへ進攻したインパール作戦(ウ号作戦)によってもたらされたものである。

インド国民軍退役軍人:テロン中佐の手紙

日本はインドにとっていい国だと思います。

大日本帝国はチャンドラ=ボースとともにインド独立のために戦ってくれました。これははっきりいえます。

インドは大日本帝国軍の犠牲により、独立することができたのです。

もし、あんなに犠牲者を出さず、また、インド国民軍に協力しないで、インドに進出した場合、大英帝国軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ=ボースの軍となったことにより、大英帝国から独立することができたのです。

私たちは常に日本に対し、感謝の気持ちを持っています。

……最後にもう一度、ありがとうございました。

プラン=ナス=レイキ(インド最高裁弁護士)

太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤(うるお)すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。

追記:2014年3月23日、インパール作戦(ウ号作戦)の70周年を記念する式典が、インパールにて、地元の団体によって行なわれた。インド独立に関してチャンドラ=ボースの貢献(こうけん)はすこぶる大きいが、同時に、日本に対する恩義(おんぎ)を彼らは忘れてはいないようだ。

チャンドラ=ボースの墓は、東京都杉並区の蓮光寺にある。

2014年3月24日月曜日

40年くらい前、日本のテレビではアメリカのドラマが放送されていた理由

40年くらい前には、日本のテレビ放送では、アメリカのドラマなどが大量に放送されていた。

それというのも、放映権料が無料だったからだ。

当時の日本のテレビ局には、採算がとれるドラマを制作する能力がなかった。コマーシャルによる収入は大したものではなかった。

そこにつけ込んだアメリカ合衆国政府は、日本にアメリカのテレビ=ドラマを無料で大量に送った。

しかし、それは善意によるものではなかった。

豪邸(ごうてい)や大型の自動車を日本人に見せつけることで、これほどの国力を備えた国を相手に戦争をしたのは間違いだったと思わせるためだった。

とはいえ、昭和40年代(1965年以降)になっても、そんなことをしているのは疑問である。戦後20年も経(た)っているのに、アメリカ合衆国の国力を見せつけて、日本人を洗脳(せんのう)しようとしていたのである。

これは、むしろ、アメリカ合衆国が、大東亜戦争[だいとうあせんそう=太平洋戦争]で、手こずったことの裏返しであろう。

とはいえ、『奥さまは魔女』Bewitched『かわいい魔女ジニー』I Dream of Jeannieは好きだな。

奥さまは魔女 コンプリート・ボックス(54枚組) [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント (2007-12-05)
売り上げランキング: 8,081


I Dream of Jeannie: Complete First Season [DVD] [Import]
Columbia Pictures Television (2006-03-14)
売り上げランキング: 28,907



2014年3月18日火曜日

Googleの検索システムで、検索ワードが表示されなくなっていた。このことが意味するのは……。

けっこう前から、アクセス解析(かいせき)を見ると、つぎのような表示を目にするようになった。

https://www.google.co.jp/ (Keywords Unavailable)
日本語訳:https://www.google.co.jp/(キーワードは利用できません)

これが何を目的としているのかわからなかった。

検索(けんさく)ワードを暗号化しているのだという。

最近の情報だと、たとえば、国家が検閲(けんえつ)をして、特定の検索(けんさく)ワードに対応した検索結果がでないようにしているところに対する対抗手段(たいこうしゅだん)だそうである。

国家が検閲(けんえつ)によって、一定の検索ワードに関する検索結果が出ないようにしているところがある。

そうした国家に対する嫌がらせかもしれない。

たとえば、支那大陸にある社会主義国家では、都合の悪い事実であることを隠(かく)したい。そこで、「天安門事件(てんあんもんじけん)」や「チベット虐殺(ぎゃくさつ)」などで検索した結果を隠(かく)したいので、そうした検索ワードで検索しても、なにも出てこないようにしている。

ところが、Googleが検索ワードを暗号化することで、検閲(けんえつ)できず、支那大陸の社会主義国家の人民も、事実を知ることになる。

どうやら、Googleでの検索ワードの暗号化は、こうした国家に揺(ゆ)さぶりをかけるものであり、もしかすると、Googleはアメリカ合衆国国防総省(こくぼうそうしょう)と連携(れんけい)しているのかもしれない。

その一方で、「言論・表現の自由」を確保するために、そうしている可能性もある。

2014年2月21日金曜日

ナポレオン=ボナパルトのときだけフランスが戦争に強かった理由

フランスは、フランス革命によって国民国家nation-state/état-nationとなったがために、1815年までは戦争に強かった。

フランス革命la Révolution françaiseにおいては、1787年に始まり、1799年のナポレオン=ボナパルトNapoléon Bonaparteがクーデタcoup d'Étatによって政権を掌握(しょうあく)するまでの期間を革命期とする。


フランス国内には、他国の国王の領地があった。たとえば、ブリュターニュBretagneにはイングランド国王の領地があった。


フランス革命を認めると、他国の国王の領地が、フランス民衆のものとなってしまう。だから、「反革命」という活動を、各地の国王が起こした。

フランス国民は、フランス革命を成就(じょうじゅ)するために必死で闘(たたか)あった。


また、他国の軍隊は、傭兵部隊(ようへいぶたい=外国人部隊)しかなく、傭兵は、所詮(しょせん)は金儲(かねもう)けなので、命を賭(か)けてまでは闘(たたか)わない。


もっとも、フランス革命時にフランス国王の傭兵であったスイス人の兵士たちは、フランスの民衆に全員が虐殺(ぎゃくさつ)されている。


フランス革命を成立させるには、反革命勢力である他国の軍隊と死に物狂いで戦わなければならなかった。

その結果、この時期だけは、フランス軍は戦争に強かったのである。

1815年に、ワーテルローの戦いBataille de Waterlooでナポレオンが敗れてから、フランスは戦争に負けてばかりいる国となっている。

2014年2月13日木曜日

地獄の戦場

大東亜戦争では、太平洋戦線にいるアメリカ兵にとっては地獄だった。

アメリカ合衆国の自動小銃は弾丸が小さい。弾丸が大きいと自動小銃にはできなかった。

また、殺害するほどではない小さい弾丸は、戦場においては、ある意味、合理的である。

死んでいないが、撃たれた兵士がいれば、その兵士を救護する者と、その兵士の荷物を運ぶ者が必要になる。撃たれた兵士を含めれば、合計で3名、戦力からいなくなる。

これは、地雷と同じ発想である。地雷を踏(ふ)んでも、大人の男性は死なない。片足が吹っ飛ぶだけである。しかし、自動小銃同様に、合計で3名が戦力から削(けず)られる。

当時、帝国陸軍は、アメリカの自動小銃などの銃弾の小さいものを「人道的(じんどうてき)」兵器と呼んだ。1発の銃弾で殺害することはないからである。

一方、帝国陸軍が使用していた銃は、1発で殺害する武器であった。しかも、帝国陸軍の狙撃兵(そげきへい)は正確無比(せいかくむひ)であった。

銃声が1発、聞こえると、確実に、味方のだれかが死ぬ。

これは怖(おそ)ろしい。

沖縄戦で2万人のアメリカ兵が発狂したのも、納得(なっとく)できる。

その一方で、帝国陸軍にとっても、地獄の戦場であった。

食糧もなく、医薬品もない上に、1発、アメリカ軍に撃(う)ち込めば、最低でも10発は撃ち返された。

2014年2月2日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その3

和歌山県伊都郡橋本町出身で、陸軍少年航空兵第一期技術生徒である坂井雅夫は、満洲(まんしゅう)勤務後は、内地での勤務となった。

陸軍航空隊の試作機の整備兵としての道を歩んだ。陸軍飛行実験部を経(へ)て、陸軍航空審査部に勤務した。

陸軍航空審査部(陸軍飛行実験部)で担当した機種は以下のとおり。

キ48 99式双発軽爆撃機

キ60

キ61 三式戦闘機「飛燕」

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その4

1/72 川崎キ48九九式双発軽爆撃機 2型乙 飛行第75戦隊
ハセガワ (2012-11-10)
売り上げランキング: 110,575

2014年1月27日月曜日

帝国陸軍が白兵戦最強とされるグルカ兵との白兵戦に勝ったことがある。

グルカ兵に帝国陸軍が白兵戦で勝ったことがあった。マレー作戦のときのことだ。

グルカ兵とは、ネパール山岳民族出身の英国陸軍傭兵部隊(ようへいぶたい=外国人部隊)である。

台湾人日本兵からなる高砂義勇軍(たかさごぎゆうぐん)とならんで、白兵戦では世界最強の部隊のひとつであるとされる。

そのグルカ兵に、マレー作戦で、クアラルンプールKuala Lumpurから北へ20kmから30kmくらいのところにあるセレンダーSerendahで、帝国陸軍はグルカ兵に白兵戦に勝っている。

グルカ兵は泣かない。涙を流さない。戦闘で仲間が死んでも泣かない。

インパール作戦で、食料不足で極限まで痩(や)せ細った日本兵と戦ったとき、帝国陸軍兵は決して背中を見せることがなかった。これにはグルカ兵は驚いた。

戦いに勝った翌朝、日本兵の遺骸(いがい)を見つけたグルカ兵は、日本兵が極限までに痩(や)せ細っているのを目(ま)の当たりにして、泣き出したという。

セレンダーで自分たちを打ちのめした日本兵が、これほどまでの状態で、あそこまで闘うのかと、涙が零(こぼ)れたという。

COLD STEEL ( コールドスチール ) 39LGKT Gurkha KUKURI グルカ ククリナイフ シルバー
COLD STEEL(コールドスチール)
売り上げランキング: 706,291

2014年1月24日金曜日

りっくんランド:陸上自衛隊広報センター

朝霞駐屯地(あさかちゅうとんち)に「りっくんランド」という陸上自衛隊広報センターがある。

朝霞駐屯地という名前だが、敷地は、東京都練馬区・埼玉県朝霞市(あさかし)・和光市(わこうし)・新座市(にいざし)に跨(またが)っている。

法律上の所在地は、東京都練馬区だが、朝霞駐屯地という名称である。

当校から朝霞駐屯地には、自転車でも行ける。

しかも、陸上自衛隊広報センターでは、90式戦車(きゅうまるしきせんしゃ)などが置いてある。最近では、10式戦車(ひとまるしきせんしゃ)の試作機も置いているそうだ。

そんなことこから、自転車で朝霞駐屯地にある陸上自衛隊広報センターに赴(おもむ)いた生徒がいた。

戦車などを見学して、帰宅途中、陸上自衛隊員が荷台に乗った幌(ほろ)付きのトラックに追い抜かれたので、自転車で走りながら、冗談で敬礼したら、きちんと返礼してくれて、うれしかったという。

気のいい兄ちゃんたちだな。

これも自衛隊の広報活動ということか。

2014年1月20日月曜日

『永遠の0(ゼロ)』に関する疑問

『永遠の0(ゼロ)』は、小説も映画も大ヒットしているそうである。

原作の小説を読んでもいなければ、映画も観ていない。

ちょろっと、予告編を観(み)てみた。

『永遠の0(ゼロ)』に登場する宮部久蔵(みやべきゅうぞう)は、天才的な戦闘機乗りだが、海軍一の臆病者だという。どうやら、死にたくないらしい。

ところが、戦闘機乗りは、元来、戦死率が高い。

死を怖(おそ)れるのであれば、戦闘機乗りにならず、たとえば、兵站(へいたん=補給)などを担当する主計科などを選べばいいのにと思ってしまう。

さらには、徴兵忌避(ちょうへいきひ)は、いくらでもできた。

映画の予告編から、子どもが生まれて、生命が惜しくなったのかもしれないと考えたが、戦争末期はどうだったのかは知らないが、特攻隊員に指名されるのは、帝国海軍の場合、次男以下で、妻子のいない者に限られた。それなのに、特攻を志願するのは理解に苦しむ。

映画を観るなり、原作の小説を読むなりしないと、こうした疑問は解決しそうにないので、時間のあるときに、映画を観たり、原作を読んだりしてみようかと思った。

そこで、はたと気づいた。

これは、原作者による罠(わな)なんじゃないか、と。

2014年1月18日土曜日

小野田寛郎よりも長く潜伏した皇軍兵士

小野田寛郎(おのだひろお)が2014年1月16日に亡くなった。

よく考えると、この人は、1974年3月に帰国するまで、百数十回、在フィリピンアメリカ軍やフィリピンの警察と戦闘したりして、30人以上、殺傷している。フィリピン政府は、よく恩赦(おんしゃ)を出したもんだと感心する。

さて、この小野田寛郎よりも長く潜伏した日本軍兵士がいる。

中村輝夫である。民族名をスニヨンという。

1942年に志願し、入所している。このときの競争率は48倍だった。大したもんだなあ。

小野田寛郎は1974年3月に帰国しているが、中村輝夫は、1975年1月に台湾に帰国している。

2014年1月17日金曜日

戦闘機「紫電=改」の生産効率を2倍にした集団

戦闘機「紫電=改」の生産効率を2倍にした集団がいた。

国策企業として、軍需産業の生産効率を引き上げるのを目的として設立された日本能率協会である。現在の日本能率協会コンサルティングだ。

トヨタ自動車のかんばん方式やジャスト=イン=タイムJust in Time生産システムは、ほんの少し、知っているが、それだけでは生産台数を2倍にできるとは思えない。私の貧弱な知識では想像もつかない。

そして、今でも、日本能率協会コンサルティングのシニア=コンサルタントで、ある会社の生産量を2倍に増やしたという人物がいた。遺伝子が息づいているということか。

新しい工作機械を導入するとか、機械の配置を変えるとか、そういうことをしたのかと思ったが、そうではなかった。機械の操作や扱い方を指導しただけだという。

やはり、何をどうするのか、想像もつかない。

2013年12月26日木曜日

イタリアは第1次世界大戦でも、第2次世界大戦でも戦勝国だった。

イタリアは第1次世界大戦でも、第2次世界大戦でも戦勝国だった。

しかし、たいていの人はそのことを知らない。

戦争で負けそうになると、反乱が起こり、そのときの政権をクーデタなどで転覆(てんぷく)し、即座(そくざ)に連合国側に加入して、ドイツなどに宣戦布告した。

現在、国際連合United Nationsの敵国条項に、イタリアは入っていないのに、ドイツと日本が入っているのはそのためである。

2013年12月23日月曜日

今日は天皇陛下の誕生日だが、A級戦犯として東條英機などが絞首刑にされた日である。

12月23日は、天皇陛下の誕生日だが、同時に、A級戦犯が絞首刑(こうしゅうけい)にされた日である。

7人がA級戦犯として絞首刑にされた。

ひとりが文官であるのを除けば、残りの6人は、全員、帝国陸軍の軍人であった。

なぜ、帝国海軍の軍人がひとりもいなかったのか?

10倍の戦力の帝国海軍が、アメリカ合衆国の海軍を相手にミッドウェー海戦で負けた。その後は、帝国海軍は負け続ける。

アメリカ合衆国は、日本の海軍はちょろいと考えたらしい。それで、帝国海軍の軍人はA級戦犯として処刑されなかったのではないだろうか?

一方、ダグラス=マッカーサー将軍General Douglas MacArtherにしても、チェスター=ニミッツ提督(ていとく)Admiral Chester Nimitzにしても、戦後、帝国陸軍を史上最強の陸軍と評価していた。

A級戦犯として絞首刑にされたのが、ひとりを除けば、帝国陸軍の軍人だけであったのは、帝国海軍はちょろいけれども、帝国陸軍は手強いと考えたからではないかと思われる。

2013年11月30日土曜日

「特定秘密保護法案」に関する個人的な危惧(きぐ)

特定秘密保護法案が取り沙汰(ざた)された当初は、「特定秘密」を自分が知ることはないから、別にどうでもよいと考えていた。

また、安倍晋三首相自身、一般の民間人にはアクセスすることができない情報だから、(おそらくは、極左や左翼などを除けば)問題はないという意味のことを述べていた。

これは杞憂(きゆう)にすぎないのだろうが、少し気になることがある。

このブログでは、軍事関係のことをお笑いネタとして、ときおり、認(したた)めている。

アクセス解析を見ると、グアムにある米軍基地(アンダーセン空軍基地か、ブリガダ通信基地か、どちらからしい)から、このブログにアクセスがあったことがあり、数分後に、同じ基地から別のIPアドレスでアクセスがあったということが判明した。

このときは、ちょっとだけビビッた。なんか不味(まず)いことを書いたのかと心配になった。

その後も、ドイツの米軍基地からアクセスがあったり、ワシントンDCからアクセスがあったり(ホワイトハウスからとは限らないが)、台湾政府からアクセスがあったりして、そのたびに、ビビッている(軍事基地や各国政府からアクセスがあっても、当該(とうがい)の記事がアニメや食べ物ネタだとビビリはしないが)。

まあ、このあたりについては、ちょっとでもキーワードに引っかかれば、自動的にアクセスして情報収集をしているにすぎないのだろうけど。

アメリカの無料アクセス解析を使っているのだけれど、それにはロシアからのアクセスはない。しかしながら、このブロガーについている「統計」を見ると、国別のアクセスの多さの順位が、1位:日本、2位:アメリカ、3位:ロシアなのである。

ロシアに日本人が多くいるとは思えないから、これらのアクセスも、ロシアの諜報機関(ちょうほうきかん)などによるものではないだろうか?

諜報活動(ちょうほうかつどう)では、とりあえず、キーワードは虱潰(しらみつぶ)しにするようだ。

で、話は特定秘密保護法案に戻って、ウェブ上で普通に転がっている情報と、書籍・新聞・週刊誌などにある情報から、ある特定の推測をしたら、どんぴしゃりと当たっていたら、「特定秘密保護法案」違反として、間違って、逮捕されてしまうのではないかと思うと、ちょっと不安だ。

自己紹介

自分の写真
和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

人気の投稿

pageTacker

フォロワー

StatCounter

ashi@