2014年3月30日日曜日

インパール作戦(ウ号作戦)は終わらない。果たされたインドとの約束。

昭和18年10月23日、日本政府はチャンドラ=ボースが主席を務める自由インド仮政府を承認し、仮政府の目的達成を極力(きょくりょく)、支援(しえん)する帝国政府声明を発した。

その翌日である昭和18年10月24日に自由インド仮政府はアメリカ合衆国・大英帝国に宣戦布告した。

そして、チャンドラ=ボースの申し出に応じて日本政府は占領下のアンダマンとニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属(きぞく)させた。

2週間後の昭和18年11月6日、大東亜戦争(だいとうあせんそう)のさなか、東京で大東亜会議が開催された。

大東亜戦争を完遂(かんつい)し、大東亜を欧米列強から解放するということを謳(うた)った「大東亜宣言」を採択した。

その後、ビルマのバー=モウ総理の提案で、インドを大英帝国から解放しようとしているチャンドラ=ボースに、完全なる支援(しえん)を与えるという宣言が追加された。

そして、自由インド仮政府のチャンドラ=ボースがこう語った。

「インドにとりましては、大英帝国の帝国主義に対する徹底的抗戦以外に途(みち)はないのであります」

対英妥協(たいえいだきょう)は奴隷化(どれいか)との妥協を意味するものである。

奴隷化との妥協は決して行なわない。

大日本帝国はインドの独立支援(どくりつしえん)を国際的に約束したのである。

大東亜会議の2か月後、昭和19年1月にインパール作戦が決定され、同年3月8日に発動された。

指揮(しき)を任(まか)されたのはビルマ方面軍第15軍司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将であった。

第15軍の3個師団とインド国民軍第1師団で、コヒマとインパールを陥落(かんらく)させる。

補給は充分ではなかった。

作戦前に敵の爆撃によって物資の大半を焼失し、兵站能力(へいたんのうりょく)は牟田口廉也中将の希望の2割にも満たないものであったが、インパール作戦(ウ号作戦)だけではなく、どの戦場でも物資不足との戦いであった。

牟田口廉也中将はコヒマを攻略した後、ただちに第31師団をアッサム鉄道が通る大英帝国軍の物資集積地であるディマプールへ急行させるように考えていた。

ディマプールを占領すれば、大日本帝国陸軍は武器・弾薬・食糧、戦いに必要な物資が手に入る。

アラカン山脈を越えていく第31師団と第15師団は、軽装備を余儀(よぎ)なくされたが、コヒマとインパール攻略後は、自動車道が開通し、補給が受けられる。

牟田口廉也中将は作戦期間を3週間から1か月とし、不足分は「敵に糧(りょう)をよる」とした。

敵の虚(きょ)をつく迅速(じんそく)な進撃がこの作戦の要(かなめ)であった。

第33師団とともに国境を越えたインド国民軍は、祖国にインドの国旗を掲(かか)げることができた。

ほかの師団よりも1週間早く作戦を開始した第33師団は、3月13日、インパールの南のトンザンで、混乱した英印第17師団を包囲した。

しかし、前線から「玉砕覚悟(ぎょくさいかくご)で戦う」という主旨(しゅし)の電報が届いたため、「玉砕寸前」と誤解した師団長の柳田元三中将(やなぎだげんぞうちゅうじょう)は包囲を解き、敵をインパール方面に逃がしてしまった。

さらに柳田元三(やなぎだげんぞう)中将は、敵への追撃を10日間も躊躇(ちゅうちょ)し、インパール手前に防御陣地(ぼうぎょじんち)を構築(こうちく)する時間を与えてしまった。

一方、3月15日から進撃した第15師団は果敢(かかん)に攻め、3月28日にはコヒマ―インパール道を遮断(しゃだん)したが、第33師団の動きが遅く、一手でインパールを攻撃する破目(はめ)になった。

同じく3月15日に、コヒマを目指し進撃を開始した第31師団は、宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将率(ひき)いる歩兵第58連隊が、3月21日にウクルルを占領(せんりょう)し、敗走(はいそう)する敵を追ってサンジャックに突進した。

しかし、サンジャックは第15師団の担当地区であり、このときの宮崎繁三郎少将の1週間のロスが、後で大きく響(ひび)くことになった。

その10日後の4月5日に第31師団はついにコヒマを占領した。

牟田口廉也中将はコヒマの第31師団に、ただちにディマプールを攻略するように命じた。

コヒマとディマプールは、徒歩で2日、大英帝国軍の補給基地はすぐそこである。

しかし、ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)中将が、ディマプールへの突進命令を取り消してしまった。

ビルマ方面軍の作戦案には、アッサム州ディマプールまでの進出は含まれていなかった。

大英帝国軍は体制を整(ととの)え、空からも補給を受け、迅速(じんそく)さを欠いた日本軍は、やがて、不利になっていった。

さらに、第31師団の佐藤幸徳(かとうこうとく)中将は、6月1日に補給途絶(ほきゅうとぜつ)を理由に無断で撤退(てったい)を開始した。

佐藤幸徳率いる第31師団に置き去りにされた第58連隊や、背中を敵に晒(さら)された第15師団は、限られた物資で懸命に1か月以上戦ったが、矢尽(やつ)き刀折(かたなお)れ、7月13日、命令を受け、撤退(てったい)を開始した。

大日本帝国陸軍の退却路(たいきゃくろ)には無数の日本兵の遺体がならび、「白骨街道(はっこつかいどう)」と呼ばれた。

そもそも、インパール作戦の発端(ほったん)は、ビルマの防衛にあった。

前年に、オード=ウィンゲートOrde Wingate准将(じゅんしょう)率(ひき)いる挺身隊(ていしんたい)が、突如、ビルマの防衛線内に侵入し、チンドウィン河方面の地形が、必ずしも敵の作戦行動を阻害(そがい)しないと知らされた。

その結果、それまでの防衛方針を一擲(いってき)して、インパール方面に対する果敢(かかん)な侵攻作戦を決意するようになった。

政略的(せいりゃくてき)にもインドの独立を望む東條英機(とうじょうひでき)首相や大本営(だいほんえい)もインパール作戦を支持し、戦局の挽回(ばんかい)を期待した。

チャンドラ=ボースら、自由インド仮政府にとっても、祖国の地にインド国旗を掲(かか)げるため、大日本帝国陸軍との協同作戦を強く要望した。

インド国民軍Indian National Armyの第1師団が参加し、大日本帝国陸軍の第33師団の後方についた。

牟田口廉也中将は、戦闘に不慣(ふな)れなインド国民軍を大英帝国軍の正面に当てるのは危険と考え、インド国民軍を成功の寸前で投入するつもりであった。

しかし、インパール作戦の成功が難しくなった状況において、チャンドラ=ボースはインド国民軍だけでもインドに進攻すると作戦継続を強く要望した。

そのことが、ビルマ方面軍の作戦中止の判断を遅らせ、雨期に入って、退却時の損害を甚大(じんだい)にした。

それがインパール作戦(ウ号作戦)だった。

インパール作戦(ウ号作戦)における第15軍の最大の敗因として、南方軍総参謀副長(なんぽうぐんそうさんぼうふくちょう)稲田正純(いなだまさずみ)少将が、牟田口廉也中将のアッサム州までの進攻を無謀(むぼう)として、作戦時期を大幅に遅らせ、妨害したことが挙(あ)げられる。

稲田正純(いなだまさずみ)少将は、インパール作戦(ウ号作戦)に参加する第15師団をタイに留(とど)めて、道路工事を命じた。

結局、第15師団は到着が大幅に遅れた上、その半分の戦力しか参加できなかった。

そして、作戦決行の直前の3月5日、大英帝国のオード=ウィンゲートOrde Wingate准将の率いる空挺旅団(くうていりょだん)が、第15軍の後方に降下し、インパール作戦(ウ号作戦)中、大日本帝国陸軍の後方を脅(おびや)かし、第15軍の補給を妨害した。

また、雨期(うき)に突入してしまい、河が氾濫(はんらん)して、退却(たいきゃく)が難渋(なんじゅう)し、被害を大きくした。

作戦発動の遅れが致命的(ちめいてき)であった。

さらに第33師団の師団長柳田元三(やなぎだげんぞう)中将や、作戦途中で前代未聞(ぜんだいみもん)の無断撤退(むだんてったい)をした第31師団の佐藤幸徳(さとうこうとく)中将も、インパール作戦(ウ号作戦)に対して、懐疑的(かいぎてき)で、作戦中も終始消極的(しゅうししょうきょくてき)だった。

インパール作戦(ウ号作戦)に反対の幕僚(ばくりょう)や現場の指揮官は補給を懸念(けねん)していたが、インパール作戦は急襲(きゅうしゅう)を旨(むね)とする作戦である。だから、師団の指揮官が作戦に消極的で躊躇(ちゅうちょ)すれば、この戦いには勝てない。

名将と言われた第31師団第58連隊の宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将は、サンジャック攻略に時間を費(つい)やし、当時、増援(ぞうえん)がなく、手薄(てうす)だったコヒマを急襲する機会を逃(のが)した。

それでも、宮崎繁三郎少将は敵の物資を奪い、装備を充実させながら、勝ち進んでいった。

戦後、宮崎繁三郎少将は、当時、第58連隊は士気も装備も充分で、ディマプール進撃中止命令は疑問だったと語っている。

作戦中盤以降の物資不足はどの戦線でも見られたが、戦利品で、武器・弾薬や食料を確保していたのは、第58連隊だけではなかった。

牟田口廉也中将の「糧(りょう)は敵による」は行なわれていた。

そんなきわどい作戦が、なぜ、実行されたのか?

牟田口廉也中将や大日本帝国政府が戦争全体の好転を諦(あきら)めていなかったからである。

大日本帝国が大英帝国を追い払い、インドを独立させるということは、インドからの援蒋(えんしょう)ルート、つまり蒋介石(しょうかいせき)を援助するためのルートを遮断(しゃだん)し、重慶(じゅうけい)の蒋介石(しょうかいせき)を屈服(くっぷく)させ、大英帝国本国への補給を遮断(しゃだん)し、大英帝国を屈服(くっぷく)させることになる。

さらに、大英帝国を脱落させることにより、アメリカ合衆国の戦争継続意志を削(そ)ぐという考えがある。

このインドへの侵攻、そして、インド独立に関する基本構想は、開戦直前の11月に出された「対米英蘭蒋(たいべいえいらんしょう)*戦争終末促進に関する腹案(ふくあん)」に明記されている。
*米=アメリカ合衆国、英=大英帝国、蘭=オランダ(和蘭陀)、蒋=蒋介石率いる国民党軍

すなわち、戦争反対のアメリカ合衆国国民を激怒させた山本五十六(やまもといそろく)の真珠湾攻撃などは、この基本構想に全く反するものであり、インパール作戦(ウ号作戦)こそが基本構想にかなうものであった。

大日本帝国がインド独立のため、チャンドラ=ボースら、インド国民軍を支援したのは、大日本帝国の戦略のためでもある。

決して、大日本帝国の一方的な善意のだけでインド独立支援を約束したわけではない。

日本人のアジア解放という使命感と、大日本帝国の自存自衛(じそんじえい)の戦いと、インドの人々の独立したいという思いが一致したからである。

戦後のGHQは、日本人を自虐史観に洗脳するために、インパール作戦の真実を隠し、惨敗(ざんぱい)だけを強調し、「愚(おろ)かな作戦」としなければならなかった。

大英帝国第14軍司令官:ウィリアム=スリムWilliam Slim中将

大日本帝国の軍司令官のなすべきすべては、コヒマに一支隊(いっしたい)を残し、師団の主力をもって、猛烈にディマプールを衝(つ)くことであった。

幸いにも佐藤幸徳(さとうこうとく)師団長はほとんどそれをしなかった。

大英帝国ディマプール方面第33軍団長:スタフォード中将

このとき、もし、大日本帝国軍がコヒマからディマプールに果敢(かかん)に急進していたのなら、(作戦全体において)大英帝国に勝利はなかった。


大英帝国軍東南アジア総司令部司令官:ルイス=マウントバッテンLouis Mountbatten大将

英印軍に非常に幸運だったのは、大日本帝国軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。

すぐに第2目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、そのころはまだ兵力の集中ができていなかった連合軍はこれを防ぐ方法はなかった。

ディマプールで補給を済ませれば、大日本帝国軍はインパール道路をコヒマで切るのと同じような有効さで切ることができる。

さらにもっと偉大な全アッサム補給線の切断ができ、対支那援助も北部方面への補給も不可能になる。

英国の軍事史研究者で、20世紀を象徴する戦略思想家:リデル=ハートSir Basil Henry Liddell-Hart

現地軍司令官牟田口廉也将軍が、ディマプール攻略を目指して進撃許可を求めたのに対し、大日本帝国軍ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)将軍は、その許可を与えなかった。大日本帝国軍がここを急襲して占領していれば、インパール救援のための大英帝国軍による反撃は、阻止され、不可能となっていたであろう。


第2次世界大戦後、大英帝国はインパール作戦(ウ号作戦)
に参加したインド国民軍の3名の将校(しょうこう)を、反逆者(はんぎゃくしゃ)として、処刑(しょけい)しようとした。これがインド国民の怒りを買い、抗議運動がインド全域に広がっていった。

この抗議運動は大英帝国軍のインド兵の反乱にまで発展し、事態収拾(じたいしゅうしゅう)が困難になった大英帝国は統治権(とうちけん)を譲渡(じょうと)し、昭和22年8月15日、日本の終戦から2年後に、インドはパキスタンとともに独立した。

英国ロンドン大学教授:エリック=ホプスバウ博士

インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるものではなく、大日本帝国軍とチャンドラ=ボースが率いるインド国民軍が協同して、ビルマを経由してインドへ進攻したインパール作戦(ウ号作戦)によってもたらされたものである。

インド国民軍退役軍人:テロン中佐の手紙

日本はインドにとっていい国だと思います。

大日本帝国はチャンドラ=ボースとともにインド独立のために戦ってくれました。これははっきりいえます。

インドは大日本帝国軍の犠牲により、独立することができたのです。

もし、あんなに犠牲者を出さず、また、インド国民軍に協力しないで、インドに進出した場合、大英帝国軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ=ボースの軍となったことにより、大英帝国から独立することができたのです。

私たちは常に日本に対し、感謝の気持ちを持っています。

……最後にもう一度、ありがとうございました。

プラン=ナス=レイキ(インド最高裁弁護士)

太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤(うるお)すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。

追記:2014年3月23日、インパール作戦(ウ号作戦)の70周年を記念する式典が、インパールにて、地元の団体によって行なわれた。インド独立に関してチャンドラ=ボースの貢献(こうけん)はすこぶる大きいが、同時に、日本に対する恩義(おんぎ)を彼らは忘れてはいないようだ。

チャンドラ=ボースの墓は、東京都杉並区の蓮光寺にある。

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和歌山県橋本市出身。世界文化遺産である高野山の麓です。
和歌山県立橋本高等学校を経て、早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。
B型Rh+。天秤座。家紋は「丸に九枚笹」。
大叔父(おおおじ)は精鋭集団である帝国陸軍航空審査部所属で、「キ61(きろくいち)の神様」と呼ばれた坂井雅夫少尉。キ61は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」のことである。

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