学生だったときに、マルティン=ハイデガーMartin Heideggerの『存在と時間』Sein und Zeitの題名を、仏教の十二縁起(じゅうにえんぎ)にある用語を採用して、京都大学教授だった辻村公一は『有と時』と訳したことを教授が説明したのだが、『有(ゆう)と時(とき)』と読んでいた。
十二縁起の「有」は「う」と読むので、隣の学生に私は言った。
「『う』と読むはずなのに、『ゆう』と読んだのは、十二縁起の『有』とハイデガーのSeinの概念(がいねん)には、微妙な違いがあるということで、読み方を変えたのだろうか?」
「うーん、芸が細かいな」
すると、このふたりの遣(や)り取りを耳にした教授は、その後、『有と時』を「うととき」と読むようになった。
2014年5月14日水曜日
2014年4月26日土曜日
哀(かな)しきアルフレッド=ノース=ホワイトヘッド
アルフレッド=ノース=ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadは、哀(かな)しい人である。
彼は相対性理論(そうたいせいりろん)に取り組んだ。
当時、ニュートン力学では説明がつかない事象(じしょう)が多く発見され、理論の再構築(さいこうちく)が必要だとされた。
さまざまな理論物理学者が、相対性理論に取り組んだ。突然、アルベルト=アインシュタインAlbert Einsteinが登場して、相対性理論を成(な)し遂(と)げたわけではなかった。
さまざまな論文が提出され、観測結果(かんそくけっか)などから、さまざまな理論がどんどん脱落(だつらく)していった。
そして、最後に残った2つの理論は、アインシュタインのものとホワイトヘッドのものだった。
このふたりの理論は、ほぼ同じであった。
たったひとつ違っていたのは、アインシュタインは、重力で光は曲がるとし、ホワイトヘッドは重力で光が曲がることはないという点だけだった。
日蝕(にっしょく)を観測したところ、太陽の向こう側にあるはずの恒星(こうせい)が観測できた。重力で光が曲がらなければ、見えるはずのない恒星が見えたのである。つまり、重力で光が曲がるということが判明したのである。
そして、相対性理論の栄誉(えいよ)はアインシュタインのものとなった。
ホワイトヘッドの第1の蹉跌(さてつ=つまずき)である。
その後、ホワイトヘッドは、バートランド=ラッセルBertrand Russellとの共著で、『プリンキピア=マテマティカ』Principia Mathematica(ラテン語で「数学原理」という意味)を刊行した。
この著書は、最後まで読んだ者が世界で4人しかいないとされる。たいていの論理学者は、前のほうだけしか読んでいない(私もそうです)。
それはともかく、クルト=ゲーデルKurt Gödelが「不完全定理」Gödelsche Unvollständigkeitssatzを提出した。
その結果、『プリンキピア=マテマティカ』の内容は、無矛盾(むむじゅん)でかつ完全であるということは、どうしても証明できないということになった。
また、ごく大雑把(おおざっぱ)にいえば、数学の基礎論における論理主義の矛盾を論理主義で解決しようとするというか、あるいは、集合論の矛盾を集合論で解決しようとするというか、そういうようなところがあった。
第2の蹉跌(さてつ=つまずき)である。
その後、ホワイトヘッドは、ぐれてしまって、哲学に進んだ。
そういえば、バートランド=ラッセルは、自分の頭がよいときには数学をやり、頭が悪くなってからは哲学をやったと言っていた。
おいおい、最初から哲学をやった私の立場はどうなるんだ!? あ、最初から頭が悪いってことか。
それはともかく、ホワイトヘッドは哲学に取り組んだ。「有機体(ゆうきたい)の哲学」というものだ。プロセス哲学ともいう。
その哲学に関しては『過程と実在』Process and Realityが著名である。しかし、たいていの人は知らない。
日本人の宗教観などは、基本的には自然崇拝(しぜんすうはい)なので、ホワイトヘッドの思想を受け入れる土壌(どじょう)がある。
しかし、漠然(ばくぜん)としたものであるとはいえ、日本には神道(しんとう)があるのだから、今更(いまさら)、ホワイトヘッドのプロセス哲学に与(くみ)する必要はそれほどない(はずである)。
これは、原始仏教や栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)や道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)などの禅(ぜん)の思想があるにもかかわらず、ごく一部の日本人がマルティン=ハイデガーMartin Heideggerの存在論(そんざいろん)に入れ込んでいるのと似(に)ている。
どうにも、不思議(ふしぎ)な現象(げんしょう)なのである。人文科学(じんぶんかがく)に関しては、西洋のほうが遅れている側面(そくめん)がある。ただ、日本は十全(じゅうぜん)には言語化(げんごか)しないのだが……。
ホワイトヘッドのプロセス哲学は、無意識のものを含(ふく)めて、東洋趣味のあるごく一部の人々にしか受け入れられなかったような印象がある。
これは、現在の英米の哲学の主流が分析哲学や言語哲学であることからも伺(うかが)われる。
ただ、不思議なのは、東洋的思想に到達(とうたつ)したホワイトヘッドの思想をありがたがって、崇(あが)める日本人がいることである。
もっとも、ホワイトヘッドが日本に残した功績(こうせき)もある。
『観念の冒険(かんねんのぼうけん)』Adventure of Ideasという著書がある。
この題名は、なかなかかっこいいと思えるものだったらしい。
その後、日本の出版業界では『◯◯の冒険』という書名が多くなった。
それにしても、あれほど頭のよい人が、日本に対して残した最大の功績(こうせき)が『◯◯の冒険』という書名だけだったというのは、哀(かな)しい。
[まとめ]
相対性理論では惜(お)しいところで駄目(だめ)だった。2番だった。
数学を基礎づけようとしたが、ゲーデルの不完全性定理によって駄目を押された。
哲学に転進したが、じつは神道の考えを言語化したに過ぎないような内容だった(らしい)。
日本の出版業界で『◯◯の冒険』という題名を流行(はや)らせただけだった。
どんなに頭がよくても、タイミングが悪いと、その能力の割には成果(せいか)が出せないこともあるということなんだろうな。
彼は相対性理論(そうたいせいりろん)に取り組んだ。
当時、ニュートン力学では説明がつかない事象(じしょう)が多く発見され、理論の再構築(さいこうちく)が必要だとされた。
さまざまな理論物理学者が、相対性理論に取り組んだ。突然、アルベルト=アインシュタインAlbert Einsteinが登場して、相対性理論を成(な)し遂(と)げたわけではなかった。
さまざまな論文が提出され、観測結果(かんそくけっか)などから、さまざまな理論がどんどん脱落(だつらく)していった。
そして、最後に残った2つの理論は、アインシュタインのものとホワイトヘッドのものだった。
このふたりの理論は、ほぼ同じであった。
たったひとつ違っていたのは、アインシュタインは、重力で光は曲がるとし、ホワイトヘッドは重力で光が曲がることはないという点だけだった。
日蝕(にっしょく)を観測したところ、太陽の向こう側にあるはずの恒星(こうせい)が観測できた。重力で光が曲がらなければ、見えるはずのない恒星が見えたのである。つまり、重力で光が曲がるということが判明したのである。
そして、相対性理論の栄誉(えいよ)はアインシュタインのものとなった。
ホワイトヘッドの第1の蹉跌(さてつ=つまずき)である。
その後、ホワイトヘッドは、バートランド=ラッセルBertrand Russellとの共著で、『プリンキピア=マテマティカ』Principia Mathematica(ラテン語で「数学原理」という意味)を刊行した。
この著書は、最後まで読んだ者が世界で4人しかいないとされる。たいていの論理学者は、前のほうだけしか読んでいない(私もそうです)。
それはともかく、クルト=ゲーデルKurt Gödelが「不完全定理」Gödelsche Unvollständigkeitssatzを提出した。
その結果、『プリンキピア=マテマティカ』の内容は、無矛盾(むむじゅん)でかつ完全であるということは、どうしても証明できないということになった。
また、ごく大雑把(おおざっぱ)にいえば、数学の基礎論における論理主義の矛盾を論理主義で解決しようとするというか、あるいは、集合論の矛盾を集合論で解決しようとするというか、そういうようなところがあった。
第2の蹉跌(さてつ=つまずき)である。
その後、ホワイトヘッドは、ぐれてしまって、哲学に進んだ。
そういえば、バートランド=ラッセルは、自分の頭がよいときには数学をやり、頭が悪くなってからは哲学をやったと言っていた。
おいおい、最初から哲学をやった私の立場はどうなるんだ!? あ、最初から頭が悪いってことか。
それはともかく、ホワイトヘッドは哲学に取り組んだ。「有機体(ゆうきたい)の哲学」というものだ。プロセス哲学ともいう。
その哲学に関しては『過程と実在』Process and Realityが著名である。しかし、たいていの人は知らない。
日本人の宗教観などは、基本的には自然崇拝(しぜんすうはい)なので、ホワイトヘッドの思想を受け入れる土壌(どじょう)がある。
しかし、漠然(ばくぜん)としたものであるとはいえ、日本には神道(しんとう)があるのだから、今更(いまさら)、ホワイトヘッドのプロセス哲学に与(くみ)する必要はそれほどない(はずである)。
これは、原始仏教や栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)や道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)などの禅(ぜん)の思想があるにもかかわらず、ごく一部の日本人がマルティン=ハイデガーMartin Heideggerの存在論(そんざいろん)に入れ込んでいるのと似(に)ている。
どうにも、不思議(ふしぎ)な現象(げんしょう)なのである。人文科学(じんぶんかがく)に関しては、西洋のほうが遅れている側面(そくめん)がある。ただ、日本は十全(じゅうぜん)には言語化(げんごか)しないのだが……。
ホワイトヘッドのプロセス哲学は、無意識のものを含(ふく)めて、東洋趣味のあるごく一部の人々にしか受け入れられなかったような印象がある。
これは、現在の英米の哲学の主流が分析哲学や言語哲学であることからも伺(うかが)われる。
ただ、不思議なのは、東洋的思想に到達(とうたつ)したホワイトヘッドの思想をありがたがって、崇(あが)める日本人がいることである。
もっとも、ホワイトヘッドが日本に残した功績(こうせき)もある。
『観念の冒険(かんねんのぼうけん)』Adventure of Ideasという著書がある。
この題名は、なかなかかっこいいと思えるものだったらしい。
その後、日本の出版業界では『◯◯の冒険』という書名が多くなった。
それにしても、あれほど頭のよい人が、日本に対して残した最大の功績(こうせき)が『◯◯の冒険』という書名だけだったというのは、哀(かな)しい。
[まとめ]
相対性理論では惜(お)しいところで駄目(だめ)だった。2番だった。
数学を基礎づけようとしたが、ゲーデルの不完全性定理によって駄目を押された。
哲学に転進したが、じつは神道の考えを言語化したに過ぎないような内容だった(らしい)。
日本の出版業界で『◯◯の冒険』という題名を流行(はや)らせただけだった。
どんなに頭がよくても、タイミングが悪いと、その能力の割には成果(せいか)が出せないこともあるということなんだろうな。
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2013年5月6日月曜日
5月5日はセーレン=キェルケゴールの生誕200周年だった。
昨日(2013年5月5日)はデンマークの実存主義の哲学者セーレン=キェルケゴールSøren Kierkegaardの生誕200周年だった。
大学生のときに、キェルケゴールの講義を受けたが、さっぱりわからなかった。
たとえば『死に至る病』の冒頭では、「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである」と書いてある。
このキェルケゴールにしても、フリードリッヒ=ニーチェFriedrich Nietzscheにしても、思い込みが激しくて、行間(ぎょうかん)が飛びまくり、飛躍(ひやく)しまくる。ついでにいうと、ニーチェが好きな人は、元・苛(いじ)められっ子だったり、実際の能力以上に自己評価が高すぎたりする人が多い。
さっぱり理解できなかったが、学年末にはレポートを執筆して、提出しなければならない。
しかたがないから、繰り返し読み返して、レポートをしたためた。
ところが、私は、理解していなくても、適切に要約する能力があった。
簡単なたとえを挙げると、「AならばBである」「BであるならばCである」とあれば、「AならばCである」と要約できる。こういうことを、複雑な論文でもできると、理解してもいない文章なのに的確に要約できるのである。
成績は最高の「A評定」であった。
理解していないのに、「A評定」というのはおかしいのではないかと思ったが、どうやら、世の中のほとんどの人は、きちんと要約することすらできない人ばかりらしい。ちゃんと理解したのであれば、その内容から、新たな概念(がいねん)なり、知識なりを導出(どうしゅつ)できないといけないと思うのだが。
2013年4月8日月曜日
その昔、司法試験の問題を解いてみせたら、行方不明者が出た。
旧司法試験の頃の話である。旧司法試験は2011年まで行なわれていた。
さて、予備校や進学塾の非常勤講師には、司法試験浪人が少なからずいた。ちなみに、生徒の成績を上げるのが上手い非常勤講師は、だいたい、2年以内に合格していたものである。一方、何年も司法試験浪人を続ける非常勤講師の担当クラスは、驚異的な成績の上昇はなかった。
旧司法試験では、大学の一般教養を終えていれば第1次試験(一般教養の試験)が免除される。第2次試験では、短答式試験・論文式試験・口述試験がある。
早稲田大学社会科学部出身の非常勤講師がいた。彼は短答式試験を5回、不合格になっていた。同じ大学の後輩ということから、「短答式試験なんかは、国語力だけで合格できるんじゃないの?」と言ってみた。
「国語力で解けるのは、憲法の問題だけです」
そう答えた彼は、数日後、学説史の問題を持ってきて、解いてみてくれという。彼は国語力だけでは解けない問題を吟味(ぎんみ)して、その学説史の問題を持ってきたのだった。
司法試験の問題を初めて目にした。記憶が定かではないけれども、そこそこに長い文章に、8箇所(かしょ)だか、10箇所だかくらい空所がある。その空所すべてを正解して、1問正解となるという。
解いてみた。
途中で2箇所、どうしても国語力だけでは正解に到(いた)らないものがあった。
そこで、この学説史の問題が、ドイツの法律の理論に基づくものだと仮定してみることにした。一か八(いちかばち)かの賭(か)けに出たのである。このことは彼には黙っておいた。
すると、批判哲学のイマヌエル=カントImmanuel Kantからゲオルク=ヴィルヘルム=フリードリヒ=ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの哲学へという流れに沿って、学説史もその流れとなると仮定すると、パズルのピースがうまく嵌(は)まった。
全問正解だった。
社会科学部出身の彼は、解答を見つめながら、こう訊(き)いた。「掃除機先生は、子どもの頃に、知能指数検査をした翌日から教師の態度が変わったという経験はありますか?」
「えっ、なんでわかるんですか?」
「でも、この問題には3分30秒しか時間が割(さ)けないのですが、今、5分30秒かかっていましたから、掃除機先生は合格できません」
「あのぉ、一般教養も含めて、今まで法律を勉強したことないんですけど」
そして、彼は行方不明(ゆくえふめい)になった。つぎの授業のときに予備校にやって来なかった。経営者が下宿に電話しても連絡がつかなかった。また、親元に連絡しても、行方(ゆくえ)はわからなかった。
当時の早稲田大学社会科学部の入試は暗記重視の問題ばかりだった。その学部出身ということは、彼は「勉強とは暗記である」と思っていた可能性が高い。
ところが、法律の知識をなにも暗記していない者が目の前で学説史の問題を解いてしまった。たぶん、世界が崩壊(ほうかい)するような思いを経験したのだろう。
ただ、よくわからないのは、私がどういう思考回路によって正解したのかを、何故(なぜ)、彼は訊(たず)ねなかったのかということである。解き方のすべてを習得できなくとも、半分以上は簡単に習得できるものなんだけどね。もちろん、そうした解き方を編み出すのはきわめて困難なことではあるが。
こういうことができるから、うちの塾の生徒の成績が、謂(い)わば「異常値」というくらいに上昇するのだが、信じてもらえない。
ところで、早稲田大学社会科学部の入試問題は、あるときを境(さかい)に、暗記重視の問題から思考力重視の問題に転換(てんかん)した。学生の質は、中年以上の人がイメージしているものではなくなっているようだ。30年前とは較べものにならないくらいに、地頭(じあたま)がよくなっている。暗記バカではなくなっている。けれども、30年前のイメージで判断しそうな人事部はありそうだから、あまりお得(とく)ではないようだ。
さて、予備校や進学塾の非常勤講師には、司法試験浪人が少なからずいた。ちなみに、生徒の成績を上げるのが上手い非常勤講師は、だいたい、2年以内に合格していたものである。一方、何年も司法試験浪人を続ける非常勤講師の担当クラスは、驚異的な成績の上昇はなかった。
旧司法試験では、大学の一般教養を終えていれば第1次試験(一般教養の試験)が免除される。第2次試験では、短答式試験・論文式試験・口述試験がある。
早稲田大学社会科学部出身の非常勤講師がいた。彼は短答式試験を5回、不合格になっていた。同じ大学の後輩ということから、「短答式試験なんかは、国語力だけで合格できるんじゃないの?」と言ってみた。
「国語力で解けるのは、憲法の問題だけです」
そう答えた彼は、数日後、学説史の問題を持ってきて、解いてみてくれという。彼は国語力だけでは解けない問題を吟味(ぎんみ)して、その学説史の問題を持ってきたのだった。
司法試験の問題を初めて目にした。記憶が定かではないけれども、そこそこに長い文章に、8箇所(かしょ)だか、10箇所だかくらい空所がある。その空所すべてを正解して、1問正解となるという。
解いてみた。
途中で2箇所、どうしても国語力だけでは正解に到(いた)らないものがあった。
そこで、この学説史の問題が、ドイツの法律の理論に基づくものだと仮定してみることにした。一か八(いちかばち)かの賭(か)けに出たのである。このことは彼には黙っておいた。
すると、批判哲学のイマヌエル=カントImmanuel Kantからゲオルク=ヴィルヘルム=フリードリヒ=ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの哲学へという流れに沿って、学説史もその流れとなると仮定すると、パズルのピースがうまく嵌(は)まった。
全問正解だった。
社会科学部出身の彼は、解答を見つめながら、こう訊(き)いた。「掃除機先生は、子どもの頃に、知能指数検査をした翌日から教師の態度が変わったという経験はありますか?」
「えっ、なんでわかるんですか?」
「でも、この問題には3分30秒しか時間が割(さ)けないのですが、今、5分30秒かかっていましたから、掃除機先生は合格できません」
「あのぉ、一般教養も含めて、今まで法律を勉強したことないんですけど」
そして、彼は行方不明(ゆくえふめい)になった。つぎの授業のときに予備校にやって来なかった。経営者が下宿に電話しても連絡がつかなかった。また、親元に連絡しても、行方(ゆくえ)はわからなかった。
当時の早稲田大学社会科学部の入試は暗記重視の問題ばかりだった。その学部出身ということは、彼は「勉強とは暗記である」と思っていた可能性が高い。
ところが、法律の知識をなにも暗記していない者が目の前で学説史の問題を解いてしまった。たぶん、世界が崩壊(ほうかい)するような思いを経験したのだろう。
ただ、よくわからないのは、私がどういう思考回路によって正解したのかを、何故(なぜ)、彼は訊(たず)ねなかったのかということである。解き方のすべてを習得できなくとも、半分以上は簡単に習得できるものなんだけどね。もちろん、そうした解き方を編み出すのはきわめて困難なことではあるが。
こういうことができるから、うちの塾の生徒の成績が、謂(い)わば「異常値」というくらいに上昇するのだが、信じてもらえない。
ところで、早稲田大学社会科学部の入試問題は、あるときを境(さかい)に、暗記重視の問題から思考力重視の問題に転換(てんかん)した。学生の質は、中年以上の人がイメージしているものではなくなっているようだ。30年前とは較べものにならないくらいに、地頭(じあたま)がよくなっている。暗記バカではなくなっている。けれども、30年前のイメージで判断しそうな人事部はありそうだから、あまりお得(とく)ではないようだ。
2013年2月24日日曜日
『宇宙戦艦ヤマト2199』に登場するドメル将軍の「宇宙の狼」という形容は言語哲学的におかしい。
『宇宙戦艦ヤマト2199』という初代『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク作品では、初代と同様にドメル将軍が登場する。
エルク=ドメル将軍Domelが「宇宙の狼(おおかみ)』と呼ばれているのには、違和感がある。
エルク=ドメル将軍のモデルは「沙漠(さばく)の狐(きつね)」Würstenfuchs / Desert Foxと呼ばれたエルヴィン=ロンメル将軍Erwin Rommelである。彼は北アフリカ戦線で英国軍を何度も壊滅(かいめつ)させたので、「沙漠(さばく)の狐」と呼ばれた。ここでの「沙漠」は北アフリカを指しており、「狐」は狡猾(こうかつ)な作戦の立案能力の持ち主であることを表している。
「◯◯の△△」と呼ばれる場合、◯◯の部分には地域名などの限られた領域・地域が入り、△△には喩(たと)えられるものが入る。
ア式蹴球(サッカー)の場合、アジアのある代表チームは「アジアの虎(とら)」と自称している。ところが、その国は、アジアの国であり、よくよく考えると、これも言語哲学的におかしい。虎はインドにベンガル虎が、シベリアにはシベリア虎(アムール虎)が、スマトラにはスマトラ虎が、中国南部には厦門虎(あもいとら)が、ミャンマーからベトナムまでには印度支那虎(いんどしなとら)が棲息(せいそく)している。つまり、虎はアジアにしかいないのである。アジアにしかいないものを用(もち)いて、「アジアの虎」と自称するのは、言語哲学的にはおかしな言語表現なのである。「日本の日本猿と呼ばれた男」「日本の日本氈鹿(にほんかもしか)と呼ばれた男」と同じくらいに変な表現なのである。
ほかにも、ア式蹴球(サッカー)の場合、サウジ=アラビア代表は「沙漠(さばく)の太陽」であり、チュニジア代表は「カルタゴの鷲(わし)」である。太陽は砂漠以外の土地にも昇るし、鷲はカルタゴ以外にも生息している。この2つの表現「沙漠の太陽」「カルタゴの鷲」は、おかしな表現ではない。
「宇宙」という全体を示す語を含む「宇宙の狼」は変なのである。「世界の狼」「宇宙の狼」であれば、それは、唯(ただ)の狼にすぎない。
尤(もっと)も、「世界のミフネ」という表現があるが、これは意味が違う。「世界に通用する俳優である三船敏郎」という意味である。
「ガミラス星を除いた宇宙」での狼という意味で「宇宙の狼」としたのかもしれないが、「宇宙」という語には、ガミラス星や地球も含むと考えるが一般的であるから、やはり、適切なネーミングとはいえない。
もしかすると、大日本帝国海軍の重巡洋艦(じゅうじゅんようかん)「足柄(あしがら)」がモデルの一部になっている可能性もある。重巡洋艦「足柄」は、キリスト教暦1937年(昭和12年、皇紀2597年)にジョージ6世戴冠記念観艦式(たいかんきねんかんかんしき)に参加した際に「飢(う)えた狼」と呼ばれたことが関係しているのかもしれない。
この「飢えた狼」は、徹底して居住性を排除した「足柄」を揶揄(やゆ)したものであったが、褒(ほ)めことばであると勘違いした日本人もいたそうである。
『宇宙戦艦ヤマト2199』のスタッフには大日本帝国海軍が好きな人が多そうだから、重巡洋艦足柄に因(ちな)んで、どうしても「狼」を使いたかったのかもしれないし、また、例えば、「◯◯星雲の狼」だと、小物(こもの)に感ぜられるから、仕方なく「宇宙の狼」としたのかもしれない。「天翔(あまか)ける狼」なら、みょうな表現ではないのだが。
追記:「宇宙の狼」は「宇宙空間の狼」の意味ではないかという指摘を受けた。もし、そうなら、おかしな表現ではないな。
エルク=ドメル将軍Domelが「宇宙の狼(おおかみ)』と呼ばれているのには、違和感がある。
エルク=ドメル将軍のモデルは「沙漠(さばく)の狐(きつね)」Würstenfuchs / Desert Foxと呼ばれたエルヴィン=ロンメル将軍Erwin Rommelである。彼は北アフリカ戦線で英国軍を何度も壊滅(かいめつ)させたので、「沙漠(さばく)の狐」と呼ばれた。ここでの「沙漠」は北アフリカを指しており、「狐」は狡猾(こうかつ)な作戦の立案能力の持ち主であることを表している。
「◯◯の△△」と呼ばれる場合、◯◯の部分には地域名などの限られた領域・地域が入り、△△には喩(たと)えられるものが入る。
ア式蹴球(サッカー)の場合、アジアのある代表チームは「アジアの虎(とら)」と自称している。ところが、その国は、アジアの国であり、よくよく考えると、これも言語哲学的におかしい。虎はインドにベンガル虎が、シベリアにはシベリア虎(アムール虎)が、スマトラにはスマトラ虎が、中国南部には厦門虎(あもいとら)が、ミャンマーからベトナムまでには印度支那虎(いんどしなとら)が棲息(せいそく)している。つまり、虎はアジアにしかいないのである。アジアにしかいないものを用(もち)いて、「アジアの虎」と自称するのは、言語哲学的にはおかしな言語表現なのである。「日本の日本猿と呼ばれた男」「日本の日本氈鹿(にほんかもしか)と呼ばれた男」と同じくらいに変な表現なのである。
ほかにも、ア式蹴球(サッカー)の場合、サウジ=アラビア代表は「沙漠(さばく)の太陽」であり、チュニジア代表は「カルタゴの鷲(わし)」である。太陽は砂漠以外の土地にも昇るし、鷲はカルタゴ以外にも生息している。この2つの表現「沙漠の太陽」「カルタゴの鷲」は、おかしな表現ではない。
「宇宙」という全体を示す語を含む「宇宙の狼」は変なのである。「世界の狼」「宇宙の狼」であれば、それは、唯(ただ)の狼にすぎない。
尤(もっと)も、「世界のミフネ」という表現があるが、これは意味が違う。「世界に通用する俳優である三船敏郎」という意味である。
「ガミラス星を除いた宇宙」での狼という意味で「宇宙の狼」としたのかもしれないが、「宇宙」という語には、ガミラス星や地球も含むと考えるが一般的であるから、やはり、適切なネーミングとはいえない。
もしかすると、大日本帝国海軍の重巡洋艦(じゅうじゅんようかん)「足柄(あしがら)」がモデルの一部になっている可能性もある。重巡洋艦「足柄」は、キリスト教暦1937年(昭和12年、皇紀2597年)にジョージ6世戴冠記念観艦式(たいかんきねんかんかんしき)に参加した際に「飢(う)えた狼」と呼ばれたことが関係しているのかもしれない。
この「飢えた狼」は、徹底して居住性を排除した「足柄」を揶揄(やゆ)したものであったが、褒(ほ)めことばであると勘違いした日本人もいたそうである。
『宇宙戦艦ヤマト2199』のスタッフには大日本帝国海軍が好きな人が多そうだから、重巡洋艦足柄に因(ちな)んで、どうしても「狼」を使いたかったのかもしれないし、また、例えば、「◯◯星雲の狼」だと、小物(こもの)に感ぜられるから、仕方なく「宇宙の狼」としたのかもしれない。「天翔(あまか)ける狼」なら、みょうな表現ではないのだが。
追記:「宇宙の狼」は「宇宙空間の狼」の意味ではないかという指摘を受けた。もし、そうなら、おかしな表現ではないな。
ラベル:
宇宙戦艦ヤマト2199,
言語,
言語哲学,
哲学
2009年7月12日日曜日
今まででいちばん感銘(かんめい)を受けたホームページ[=表紙]
今までで最も感銘(かんめい)を受けたホームページ[=表紙]は、蓮實重彦(はすみしげひこ)がコーディネーターを務める「あなたに映画を愛しているとは言わせない」www.mobu.jpのものだ。
真っ白い表紙に「あなたに映画を愛しているとは言わせない」と大書された文字と、左隅(ひだりすみ)に小さく「enter」と書いてあるだけのもの。こんな感じ。
---
あなたに
映画を愛しているとは
言わせない
enter
---
私自身がシンプルなものが好きだからということもある。
蓮實重彦は、現在、東京大学名誉教授で、1997年から2001年まで東京大学総長を務めている。総長選挙後、記者会見で、「率直な感想は?」と記者に訊(き)かれ、「いささかの喜びを感じている。……というのも、記者会見にあたって、『率直な感想』を訊かれるかどうか、友人と賭けをし、私は、訊かれるに賭けていたからだ」
うまい。入念に準備して、この答えを用意していたな。
この件について、大学の先輩で、熱烈な蓮實重彦ファンに「いやあ、小粋(こいき)なフランス風エスプリespritってやつですな」と言ったら、「蓮實さんを馬鹿にするな」と叱(しか)られた。からかっていただけなんだけど。
ほかに、気に入っているウェブサイトの表紙は建築家の隈研吾(くまけんご)のKengo Kuma and Associates(隈研吾と仲間たち)の表紙。こんな感じ。
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JAPANESE | ENGLISH リクルート | RECRUIT
Kengo Kuma & Associates | 2-24-8 BY-CUBE 2F Minamiaoyama Minato-ku Tokyo 107-0062 \ T +81 03-3401-7721 F +81 03-3401-7778 | © Kengo Kuma & Associates
---
↓実物はこちら。
個人的には、隈研吾が設計したM2というポスト=モダンPost Modernな建築作品が好きなんだけど、その建物を知っている人はみんな、「あの変な建物」という反応をする。のみならず、隈研吾自身、今はスタイルが変わっていて、当時の建築物を否定したいらしい。
柱というものは、なにかを支えるためのものである。柱しかなければ、それは柱として機能していないし、柱とはいえない。ところが、M2は、円柱の形状をしたものが、建物の中心にでーんと据(す)わっている。柱の形をしているのに、何もささえていない。環状8号線をオートバイで走っているときに、これを初めて目にして、どうしようもないほど感動した。何も支えていないということで、見るものに改めて、柱というものの本来の機能を再確認させるものなのだ。
具体的に、どんな建築作品であるかについては、M2-隈研吾を参照のこと。
また、隈研吾の『新・建築入門』(ちくま新書)を読んで、哲学史と建築史とを重ね合わせる叙述(じょじゅつ)を読み、感心したのだけれど、この本に対して批判的な人は少なからずいるようだ。それが不思議なんだけど、批判的な人に知識・教養が充分には備わっていないのか、それとも自分が、建築について詳しくないから不思議に感じるか、どっちなんだろうか?
ところで、蓮實重彦は、フランス文学者なのに、コーディネーターでしかなく、実際にウェブサイトを製作したのが別人らしく、「あなたに映画を愛しているとは言わせない」は、英語を使っている。フランス語よりも英語を使う人のほうが多いということもあるし、また、フランス語だとわからないという人も多いのだろう。
英語で「enter」とあっても、これは、動詞の原形なのか、命令文なのか、はっきりしない。フランス語のウェブサイトを閲覧(えつらん)すると、つぎの4つの表記法がある。
1) entrer フランス語の不定形(英語の「原形」にあたるもの)を使う。
2) Entrez 丁寧な命令形を使う。
3) Entre ぞんざいな命令形を使う。
4) enter いっそのこと、英語をそのまま使う。
フランス語での混乱ぶりがわかるであろう。インターネットというものは、所詮(しょせん)、アメリカのものだというのが、この点からも伝わってくるというものだ。
2009年6月21日日曜日
語の定義から「本当のしあわせ」は存在しない。
語の定義から「しあわせ」というものは、存在しえない。理論的に成立しないといったほうがよいかもしれない。「しあわせ」は「幸福」と言い換えてもよいかもしれないが、どこかの団体をおちょくっていると思われると困るので、「しあわせ」で統一する。
さて、「ほどほどのしあわせ」は、「本当のしあわせ」とはいえない。なぜなら、自分よりも、しあわせな人間がいるかぎり、自己のしあわせに対して、完全な満足感が得られるわけではない。いくらかでも、妬(ねた)みや嫉(そね)みがある以上、それは「本当のしあわせ」とはいえない。
そうなると、「しあわせ」とは1種類しか存立(そんりつ)しえない。それ以外は、すべて不完全な「しあわせ」である。
「しあわせな状態」が1種類しかない場合、その「しあわせな状態」も場合分けできる。「しあわせな状態」に到達できるまでの時間で分けることができる。
唯一の「しあわせ」に到達するのに、30年かかる場合と、2年で到達できる場合とでは、どちらが、より一層「しあわせ」であるといえるのであろうか?
当然、最短時間で到達できるのが、「究極のしあわせ」であろう。
「究極の最短時間」を追求すると、その人物のすべての行動が、理論的には、がっちりと決まってしまう。そこには、なんの自由意志も存在しない。
「究極の最短時間」で「究極のしあわせ」を求めると、自由がまったくなくなり、すべての行為は、苦役(くえき)と同じになってしまう。
この状態を「しあわせ」と呼ぶ人間がこの世界に存在するとは思えない。
以上のことから、「しあわせ」という語の定義から演繹(えんえき)すると、「しあわせ」というものは存在しえないということがわかるはずである。
同様に、たとえば、倫理学(りんりがく)という学問があるようだが、倫理学の始まりが、ソクラテスの「善(よ)く生きよ」を追求するものであるならば、最終的には自由のない苦役(くえき)のような生き方を強いるものになるはずであり、そこには人間性のかけらすらなく、まるでロボットのような生き方にならざるをえない(はずである)。
2009年4月24日金曜日
時間の最小単位
現代の物理学では、時間の最小単位というものは存在しない。もっとも、測定できる範囲での最小は、0.0000000000000001秒くらいらしい。
運動がまったく存在しない空間というものがあるとすれば、そこに時間は存在しないと言える。時間とは、物の運動を別の視点から見たものだと考えられるからだ。
しかし、こうした議論の際に、とりわけ、理系学部出身者に、「そうは言うけど、仏教では1刹那、すなわち0.013秒が時間の最小単位なんだよな」と言うと、どういうわけか、大笑いされる。
一定レベルのことを理解した上で、「仏教では……」というところがおもしろいのかもしれない。
2009年4月22日水曜日
Wittgensteinは「ウィトゲンシュタイン」か、「ヴィトゲンシュタイン」か
オーストリアのウィーン生まれの哲学者にLudwig Josef Johan Wittgensteinという人物がいる。
Wittgensteinという綴りだから、標準ドイツ語の発音をカタカナ表記にすれば、「ヴィトゲンシュタイン」となるはずである。しかし、日本の哲学界では、「ウィトゲンシュタイン」と表記するのが一般的である。
ちなみに、ウェブで"ウィトゲンシュタイン"で検索すると、約131,000件だったが、"ヴィトゲンシュタイン"だと約52,000件だった。
「ウィトゲンシュタイン」と表記する理由は、こうだ。
標準ドイツ語では"w"の発音は英語の"v"と同じなのだが、ウィーン方言のドイツ語では「柔らかい」音で発音する。そもそも「ウィーン」という地名自体、"Wien"だから、標準ドイツ語だと「ヴィーン」となるが、ウィーン方言の発音にあわせて「ウィーン」と日本語では表記する。
日本語は、西洋語に関しては、きわめて原音重視だ。いや、むしろ、中国語以外では原音重視だといったほうがいいかな。
人名に関して、出身地の方言を採用するのは、どういうものかなと思う。
日本の地名・人名に関しては、地元の発音、とりわけ、抑揚(よくよう、イントネーション)を重視することはあまりないようである。「中田」さんの場合、地方によって、「なかだ」であったり、「なかた」であったりする。このあたりは区別するようだ。
たとえば、長崎県「佐世保」の場合、地元での発音は「させほ」に近い発音であるのに、「させぼ」が一般的な読みとなっている。
また、作家の太宰治(だざいおさむ)の本名は津島修治(つしましゅうじ)であるが、津軽弁では「つすますーず」と発音するそうだが、しかし、太宰治について述べる際に「太宰治の本名はつすますーずです」とはだれも言わない(ようだ)。
私自身、自分の名前を述べる場合、基本的には共通語(標準語)のイントネーションで発音する。出身地の方言のイントネーションで発音するのは、地元にいるときだけだ。
ウィーン方言ではそう発音するといわれても、「ウィトゲンシュタイン」と表記することには、すこぶる抵抗を感じている。
しかしながら、この考え方で英語を考えると、英語に由来する語のカタカナ表記はすべからくイギリス発音でないといけないことになってしまう。英語は、本来、イングランドの言語なのだからね。
そうすると、schedule(スケジュール)は、「シェジュール」となってしまう。parents(ペアレンツ)は「パレンツ」になってしまう。
このあたりについては、イングランドの植民地だったアメリカ合衆国が、今では、唯一の超大国となり、インターネットを、ある意味では、支配しているという現状を鑑(かんが)みなければならないのだろう。
一貫性のない主張で申し訳ない。
2009年3月1日日曜日
「私」は「今」「ここ」にいる。
ドイツ系の哲学をやっている人の中には、冗談でこんなことを言う人がいた。
真理(しんり)、真理と騒ぐが、真理なら、簡単に手に入る。
「私は、今、ここにいる」
ほら、いつ、どこで、だれが言っても、この文は正しいではないか?
「私は今、ここにいる」という命題[=文]は、いつ、どこで、だれが述べたとしても、真なる命題である。が、しかし、だれも、この命題を、普遍的真理とは看做(みな)さない(真理とは本来、普遍的なものなので、「普遍的真理」はくどい表現だが)。
なぜか?
私・今・ここという語は、一般名詞でもなければ固有名[=固有名詞]でもないからである。
では、私・今・ここという語はどういった類(たぐ)いの語であるのか?
こうしたものを「函数的名辞」と名づける場合がある。「函数」は「関数」functionの古い表記で、名辞は名詞のことだ。数学で用いる f(x) の f の部分に相当するのが、私・今・ここという語であり、(x) は状況・文脈などに相当する。
かりに、「私は今、ここにいる」と紙に書いたとする。のちに、だれかが、その紙を見つけ、「私は今、ここにいる」という文言(もんごん)を目にしたとしても、「私」がだれのことであるか、「今」がいつのことであるか、「ここ」とはどこであるか、まるでわからないであろう。私・今・ここという語が、函数的名辞であるからだ。
たとえば、「12」という整数が固有名であるとするならば、「素数」や「虚数」などの語あるいはカテゴリーは、一般名詞に相当する。そして、私・今・ここという語は函数(関数)に相当する。
かりに、つぎのようなことを述べる者がいるとしよう。
「私」という意識の所在は、常に同時に、「今、ここ」という時間的・空間的位相の呪縛(じゅばく)の中で、あがいているにすぎない。
今、即興で適当なことを書いてみたが、ここには、深遠なものはなにもない。「私」という存在が「今、ここ」にいる状態から逃れられないと把(とら)えるのは、根本から誤っている。私が常に今、ここにいるのは、私・今・ここという語が函数的名辞(かんすうてきめいじ)にすぎないからである。今・ここが固有名であるならば、「逃れられない」という表現には意味はなくもないが、固有名に対してのみ意味をもつ「逃れられない」という表現を函数的名辞に対して言うのであれば、たんなる「ことばの誤用」にすぎない。上記の例文には、ただ、私・今・ここという語の理解の不充分さだけが存在しているといえよう。
似たようなことは、倫理学でもあるようだ。数学での「解なし」に相当する問題を設定して、「世の中には容易には答えの出ない問題がある」で1年を締(し)め括(くく)るゼミナールや講義が倫理学にあるとして、それは、倫理学上の難問を扱っているのではなく、問題設定が誤っているにすぎない。
解なし、解が1つ、解が2つ、虚数解があるなどのことによって、解なしの問題を指して「この問題はあの問題よりも深遠である」とは数学ではだれも言わない。
2009年2月20日金曜日
役に立たないものを勉強する特権
漫画やドラマに登場する勉強嫌いのステレオタイプとして、「こんな勉強が何の役に立つんだ!」というものがある。だが、これは大いに間違っている。少なくとも高校までに習うことは、どれもこれも、役に立つことばかりである。役に立たないことはひとつもないと言っても過言ではない。もちろん、特定の職業に就くには、これは知らなくてもなんとかなるというものはある。それでも、知っておいたほうがある局面では少しは有利になる。 「役に立たない」と決めつける者は、どのような局面で役に立つ場合があるのか、想像することができない人間である。
では、大学に進学すれば役に立たないことが学べるかというと、これは大学次第である。今は、大学の数が多くなりすぎている。大学も生き残りをかけて、さまざまな工夫を凝らしている。受験しやすいシステムにしようとしていたり、イメージアップ戦略に走ったりしている。大学の偏差値は何で決まるかを端的に述べると、就職の良し悪しであり、OBの平均生涯所得である。すると、中堅大学のみならず、そこそこの難度の大学でも、数多く資格を取らせることに力を注ぐようになっている。言ってみれば、大学という名の「高度な専門学校」と化している。大学に進学しても、「役に立つ」ことしか学べなくなっている。
だからこそ、役に立たないことを学んだり、研究したりできるのは、一定レベルの勉強をこなした者だけの特権である。ずっと、そんなふうに考えていた。学生時代に、言語哲学や分析哲学という分野を勉強した。言語の構造や言語分析を通じて、われわれの認識にとっての世界の論理構造を把握しようとしてみたのである(結局、失敗した)。
ところが、実生活ではまったく役に立たないと思っていたのに、役に立っている。いや、むしろ、役に立ちすぎている。HAL496では、入試の問題文に見られる特徴的な言葉遣いから出題者の意図を読み取るなどの指導をしているが、言語哲学が役に立ちすぎて、一般の塾・予備校に通う場合よりも、とりわけ、選択肢のある問題では、はるかに少ない知識で正解できてしまう。こんなにも役に立ってしまうことを勉強したのかと、ちょっとがっかりしている。
同じようなことを考える人はほかにもいるもので、東京大学理学部数学科で整数論が専門の教授がこんな意味のことを書いているのを読んだことがある。
大学というのは、役に立たない学問ほど偉いとされる。学部紹介で最初に紹介されるのは理学部であり、理学部でも数学科が最初に紹介され、数学科でも整数論が最初に紹介される。整数論が理系学問のなかで最も役に立たないがゆえに、最も尊いのである。ところが、最近、整数論の素数が公開鍵暗号に利用されるようになった。役に立ってしまう。これは嘆かわしいことだ。
役に立たないからこそ、立派な学問だと思っていたのに、メルセンヌ素数なんかを利用して、ウェブ上でのセキュリティのために公開鍵暗号なんてものが考案されたのである。がっかりな気持ちはわかる。
ちなみに、たいていの理学部の組織図では数学科が筆頭に置かれるが、文学部では哲学科が筆頭に置かれる。世間的な意識では「最も役に立ちそうにない学問」なんだな。
2009年2月15日日曜日
経済学者のケインズは若い頃に「確率原理」という論文で、確率は直観的な概念なので定義を必要としないとした。
ジョン=メイナード=ケインズJohn Meynard Keinesは、イングランドの経済学者である。有効需要に基づいてマクロ経済学を確立した。主著は『雇用・利子および貨幣の一般理論』The General Theory of Employment, Interests, and Money。
彼は、ケンブリッジ大学キングズ=コレッジKing's College, Cambridge Universityの数理学部に入学した。なお、イギリス英語ではcollegeは「コレッジ」と発音する。1905年に学士を得て、1908年に修士号を取得。修士号の際、1907年に提出した論文が「確率原理」'The Principles of probability'であった(ちなみに、論文のタイトルはイギリス英語では一重引用符single quatation marks('...')でくくる)。さらには、1921年に『確率論』A Treatise on Probabilitiesを刊行している。もっとも、ケインズの確率論は、現代数学の確率論ではなく、当人自身も哲学的なものと考えていたらしい。
さて、「確率原理」でケインズは確率の概念を定義しなければならないのであるが、おどろくべき方法で処理しているぞ。
「確率」という概念は直観的なものなので、定義を必要としない。
こんなのありかよと思いつつ、ケインズは確率や期待値を周囲の人々に納得させる説明が思いつかなかったか、あるいは、数理感覚の乏しい人しか周囲にいなかったのかもしれない。実際、期待値の概念がさっぱりわからないという怒涛の文系タイプっているものな。たとえば、1枚100円の宝くじの期待値は40円で、競馬の馬券(正式名称は「勝ち馬投票券」だったっけ?)の100円あたりの期待値は80円なので、数学的には競馬のほうが得なのに、宝くじを買う人が多いのは数学的に不思議であると言っても笑わない生徒がいる。本当は、どちらにしても損するようにできているのだけど。
日本語だけで読むとアクロバティックに思えることをケインズが言ったのは、ジョージ=エドワード=ムーアGeorge Edward Mooreというケンブリッジ大学教授の著書に影響を受けてのものである。
ムーアは1903年に『倫理学原理』Principia Ethicaを著(あらわ)した。この著書で、倫理学、つまり道徳を論ずるにあたり、まず、「善とは何か」を定義しようとする。そこでムーアが行なったことは、「善い」goodということばの用例を集めて、それらの用例に共通するものが「善」の本質であろうとみなすつもりであったが、ところが、用例すべてに共通する性質がなかった。
そこで、ムーアはつぎのように結論づけた。
「善」とは直観的な概念なので、定義を必要としない。
直観主義倫理学の始まりだ。
「善」とは直観的な概念なので、定義を必要としない。
直観主義倫理学の始まりだ。
ムーアのこのやり方を知ったケインズは、確率の概念に適用したのである。
日本語でしか考えないと、いったい、どこが「直観的」なのかと思うかもしれない。しかし、確率はprobabilityであり、これはprobable(起こりそうな、ありそうな)という形容詞やprobably(たぶん)という副詞の名詞形である。英語を話す人には、probableやprobablyから、なんとなく「直観的に」わかる。だからこそ、ケインズは「確率原理」という論文で学位を取得し、チューターの地位についている。チューターっていうのは、1人またはごく少数の学部生を対象とする補助教員のようなものである。
ケインズの確率の定義づけはつぎのように書き換えることができる(かもしれない)。
probabilityは、probable(起こりそうな、ありそうな)やprobably(たぶん)などの語の使い方からなんとなくわかるので、なんとなくそのまま使ってもかまわない。
ケインズによる確率の概念の定義づけは、日本語だけで読むと「はぁ?」となるものが、英語で考えると「ふーん」となる例である。
probabilityは、また、「蓋然性(がいぜんせい)」とも訳すが、漢籍の素養がなければ、字面(じづら)からはなんのことか推測すらできないな。
2009年1月31日土曜日
人間とは道具を作る道具を作る動物である。 はぁ?
「人間とは道具を作る道具を作る動物である」は、意識的にわかりにくく書いたものだが、もう少しわかりやすく書き直すとこうだ。
人間とは、道具を作るための道具を作る動物である。
人間の特徴として、古来から、火を使う・道具を使う・ことばを使うの3点が挙げられてきた。ギリシア神話や聖書からの影響である。いや、人間の素朴な感覚がギリシア神話や聖書に反映しているのであって、神話や聖書から、人間とは火と道具とことばを使う動物だと考えてわけではないから、ギリシア神話や聖書の影響とはいえないだろう。とはいえ、ギリシア神話や聖書に親しんでいる西洋人のほうが、直観的に理解するだろう。
ことばを使うに関しては、たとえば、蜜蜂はダンスによって花の在り処を仲間に伝えるから、人間だけにかぎった特徴とはいえない。
火の使用については、火をおこせなくとも、たとえば日本猿は焚(た)き火にあたることができなくもないから、人間の特権とは言いがたい側面がなくもない。しかし、火をおこすことは人間にしかできない。
道具に関しては、数多くの動物が道具を使っている。ラッコは背泳ぎをしながら胸の上に石を載せ、前足で持った貝を石にぶつけて、中身を取り出して食べる。また、エジプトハゲワシは石をくわえて、駝鳥の卵にぶつけて、割って食べる。加工はしていないが、道具の使用といえる。
野生のチンパンジーは、木の枝を折って、葉をむしり取り、白蟻の巣の穴に差し込んで、白蟻釣りをする。この場合、葉をむしり取るなどの行為がみられるので、道具を製作した上で、使用しているといえる。
こうなると、道具の使用が人間の特徴といえなくなる。しかし、道具にちょっとこだわると、つぎの観点をわれわれは獲得できる。すなわち、人間とは道具を作るための道具を作る動物である、と。確かに、道具を作る道具を作る動物は人間のほかにはいない。
道具を作るための道具ってのは、つまりは、工作機械だな。ということは、工作機械メーカーはすぐれて「人間的な」企業であり、「人間らしい」企業ってことになる。
ついでに国別工作機械の生産量を調べてみたところ、日本とドイツがトップ2で、いずれも輸出量が多い。ということは、日本とドイツはすこぶる「人間的な」国家であり、「人間らしい」国家ということになる。
「人間らしい」ということばの使い方がちょっと変な気がするけど。
ところで、火をおこすのは人間にしかできないのであれば、「放火」はきわめて「人間らしい」犯罪ということになると思ったけど、理性のない存在には罪は問えないから(人が石につまずいて転んでも、石に責任は問えない)、この点からすれば、犯罪そのものが「人間的」といえなくもないんだけど。
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自己紹介
- 掃除機庵主人
- 和歌山県, Japan
- 早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。
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