では、大学に進学すれば役に立たないことが学べるかというと、これは大学次第である。今は、大学の数が多くなりすぎている。大学も生き残りをかけて、さまざまな工夫を凝らしている。受験しやすいシステムにしようとしていたり、イメージアップ戦略に走ったりしている。大学の偏差値は何で決まるかを端的に述べると、就職の良し悪しであり、OBの平均生涯所得である。すると、中堅大学のみならず、そこそこの難度の大学でも、数多く資格を取らせることに力を注ぐようになっている。言ってみれば、大学という名の「高度な専門学校」と化している。大学に進学しても、「役に立つ」ことしか学べなくなっている。
だからこそ、役に立たないことを学んだり、研究したりできるのは、一定レベルの勉強をこなした者だけの特権である。ずっと、そんなふうに考えていた。学生時代に、言語哲学や分析哲学という分野を勉強した。言語の構造や言語分析を通じて、われわれの認識にとっての世界の論理構造を把握しようとしてみたのである(結局、失敗した)。
ところが、実生活ではまったく役に立たないと思っていたのに、役に立っている。いや、むしろ、役に立ちすぎている。HAL496では、入試の問題文に見られる特徴的な言葉遣いから出題者の意図を読み取るなどの指導をしているが、言語哲学が役に立ちすぎて、一般の塾・予備校に通う場合よりも、とりわけ、選択肢のある問題では、はるかに少ない知識で正解できてしまう。こんなにも役に立ってしまうことを勉強したのかと、ちょっとがっかりしている。
同じようなことを考える人はほかにもいるもので、東京大学理学部数学科で整数論が専門の教授がこんな意味のことを書いているのを読んだことがある。
大学というのは、役に立たない学問ほど偉いとされる。学部紹介で最初に紹介されるのは理学部であり、理学部でも数学科が最初に紹介され、数学科でも整数論が最初に紹介される。整数論が理系学問のなかで最も役に立たないがゆえに、最も尊いのである。ところが、最近、整数論の素数が公開鍵暗号に利用されるようになった。役に立ってしまう。これは嘆かわしいことだ。
役に立たないからこそ、立派な学問だと思っていたのに、メルセンヌ素数なんかを利用して、ウェブ上でのセキュリティのために公開鍵暗号なんてものが考案されたのである。がっかりな気持ちはわかる。
ちなみに、たいていの理学部の組織図では数学科が筆頭に置かれるが、文学部では哲学科が筆頭に置かれる。世間的な意識では「最も役に立ちそうにない学問」なんだな。
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