真理(しんり)、真理と騒ぐが、真理なら、簡単に手に入る。
「私は、今、ここにいる」
ほら、いつ、どこで、だれが言っても、この文は正しいではないか?
「私は今、ここにいる」という命題[=文]は、いつ、どこで、だれが述べたとしても、真なる命題である。が、しかし、だれも、この命題を、普遍的真理とは看做(みな)さない(真理とは本来、普遍的なものなので、「普遍的真理」はくどい表現だが)。
なぜか?
私・今・ここという語は、一般名詞でもなければ固有名[=固有名詞]でもないからである。
では、私・今・ここという語はどういった類(たぐ)いの語であるのか?
こうしたものを「函数的名辞」と名づける場合がある。「函数」は「関数」functionの古い表記で、名辞は名詞のことだ。数学で用いる f(x) の f の部分に相当するのが、私・今・ここという語であり、(x) は状況・文脈などに相当する。
かりに、「私は今、ここにいる」と紙に書いたとする。のちに、だれかが、その紙を見つけ、「私は今、ここにいる」という文言(もんごん)を目にしたとしても、「私」がだれのことであるか、「今」がいつのことであるか、「ここ」とはどこであるか、まるでわからないであろう。私・今・ここという語が、函数的名辞であるからだ。
たとえば、「12」という整数が固有名であるとするならば、「素数」や「虚数」などの語あるいはカテゴリーは、一般名詞に相当する。そして、私・今・ここという語は函数(関数)に相当する。
かりに、つぎのようなことを述べる者がいるとしよう。
「私」という意識の所在は、常に同時に、「今、ここ」という時間的・空間的位相の呪縛(じゅばく)の中で、あがいているにすぎない。
今、即興で適当なことを書いてみたが、ここには、深遠なものはなにもない。「私」という存在が「今、ここ」にいる状態から逃れられないと把(とら)えるのは、根本から誤っている。私が常に今、ここにいるのは、私・今・ここという語が函数的名辞(かんすうてきめいじ)にすぎないからである。今・ここが固有名であるならば、「逃れられない」という表現には意味はなくもないが、固有名に対してのみ意味をもつ「逃れられない」という表現を函数的名辞に対して言うのであれば、たんなる「ことばの誤用」にすぎない。上記の例文には、ただ、私・今・ここという語の理解の不充分さだけが存在しているといえよう。
似たようなことは、倫理学でもあるようだ。数学での「解なし」に相当する問題を設定して、「世の中には容易には答えの出ない問題がある」で1年を締(し)め括(くく)るゼミナールや講義が倫理学にあるとして、それは、倫理学上の難問を扱っているのではなく、問題設定が誤っているにすぎない。
解なし、解が1つ、解が2つ、虚数解があるなどのことによって、解なしの問題を指して「この問題はあの問題よりも深遠である」とは数学ではだれも言わない。
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