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2014年6月23日月曜日

Caterhamの発音について

Caterhamは、以前、「ケーターハム」と読んでいたが、日本の公式サイトでは、「ケータハム」となっている。

しかし、イギリス英語では、地名の-hamのhは発音しないので、本来の発音は、「ケイタラン」「ケイトラン」に近い発音になる。ジョーンズ式の発音記号だと/kéitə(r)əm/である。

バッキンガム宮殿the Buckingham PalaceやバーミンガムBirminghamやフラムFulhamでは、hを発音しないのに、どうして、日本人は、Caterhamのときは、発音するのだろうか?

そういえば、ロールス=ロイスRolls-Royceは、「ロール=ロイス」/róulzrɔ'is/なのだが、日本の正規代理店も「ロールス=ロイス」としている。

日本の自動車関係者は英語の発音が苦手らしい。

2014年4月17日木曜日

英語を高校や大学の入学試験からなくしたほうがいいのではないかと国会で質問した政治家がいたが……。

日本は、日本語だけで生活ができる国である。

発展途上国では、高校以上になると、英語の教科書を使って英語で授業をせざるを得ない。母国語の教科書がないからである。

ところが、日本では、余程の最先端技術などでないかぎり、かなり高度な内容のものまで、日本語で読める。

英語を必要とする人は、日本には1割程度しかいない。海外勤務者と、観光業に携(たずさ)わる人々、外資系の企業に勤めている者で、1割程度なのだという。

また、つぎのような議論もある。

たとえば、中学1年生から大学2年生を終えるまで、毎日、1時間、英語を勉強したとすると、「1時間×365日×8年+2日(閏年(うるうどし)=2922時間」となる。

概(おおむ)ね、3000時間になるわけだ。

卒業後、英語を必要としない職業に就(つ)く場合、この3000時間は、謂(い)わば、ただの無駄だったということになる。

一方、英語を母国語とする英国人やアメリカ人は、この3000時間を、ほかのことに取り組むことができる。元々(もともと)の能力が同じであれば、これでは国際競争に勝てない。

だから、この3000時間を、もっと有益なことに費(つい)やすべきではないのかという議論である。

さて、40年前だか、50年前だかに、入学試験から英語をなくしたほうがよいのではないかと質問した国会議員は、一般の人は、通訳と翻訳(ほんやく)を利用すればよいのだから、英語の試験は不要であるとしていたと記憶する。

そのときの答弁が意外なものだった。

入学試験から英語などの外国語をなくすと、英語などは選択科目になる。そうなると、ほとんどの人は外国語を選択しないだろう。

中学生に英語を教える能力しかない教員や、高校生に英語を教える能力しかない教員が多い。英語選択者が大幅(おおはば)に減(へ)れば、そうした教員は必要なくなり、その結果、大失業問題が発生する。

したがって、経済上の問題から、英語などの外国語を入学試験の科目から外(はず)すことはできない。

これには、意表を衝かれたな。

2014年3月27日木曜日

ロンドンと雨

ロンドンは雨が多いようなイメージがあるが、そうではない。

年間の降雨日数(こううにっすう)は100日くらいで、年間降水量も600mmくらいである。東京の1500mmと較べて4割くらいでしかない。

しかも、たいていの雨は、いわゆる霧雨(きりさめ)である。傘(かさ)を持っていない者が少なくないし、傘を持っていても、霧雨なら傘をささない人が多い。濡(ぬ)れても、日本と較(くら)べて湿度(しつど)がずいぶんと低いので、すぐに乾(かわ)くからである。

イングランドでは、雨が降っても、サッカーやラグビーは試合をすると言われるが、あれは霧雨ばかりだからである。中学校や高等学校で、「イングランドでは雨でも試合をするんだ!」と、土砂降(どしゃぶ)りの中で練習試合をさせられたことが何度かあって、うんざりしたものだ。

もちろん、イングランド人は土砂降りでも試合をすることがある。けれども、霧雨ばかりで、本格的な雨が滅多(めった)に降らないから、はしゃいでいるという側面がある。

乾季(かんき)から雨季(うき)に入ったときに、アフリカの子どもたちが屋外(おくがい)ではしゃぐのと同じなのである。あるいは、日本の南国で、たまに雪が降ったときの子どもの大はしゃぎぷっりと同じとも言える。

しかも、長時間にわたる雨は滅多(めった)にない。

動画サイトのYouTubeで、「イングランドの都市名+rain」で検索すると、日本人の感覚からすると「普通の雨」を撮影したビデオがむやみにアップロードされている。

以下の動画も、日本人の感覚からすれば、「普通の雨」なのに、heavy rainとなっている。日本の辞書では「豪雨(ごうう)」「土砂降り」「大雨」となっているにもかかわらずだ。

どうやら、イギリス英語では、こういうことらしい。

rain =霧雨
heavy rain =(日本人の感覚での)普通の雨

「土砂降りの雨が降る」を、英語では、It rains cats and dogs.と習ったが、イギリス英語では、もしかすると、雨音(あまおと)が聞こえる程度の雨のことなんではないかと訝(いぶか)しんでいる。

まあ、日本人の感覚での「豪雨」は、台風が基準になっていて、イングランドには台風はないからね。



2014年2月7日金曜日

LAND ROVER(ランドローバー)という名前は変である。

LAND ROVERは、イングランドの自動車メーカーのブランドだったが、今は、インドにあるタタ=モーターズTata Motors Limitedのブランドである。

roverには「放浪者(ほうろうしゃ)」の意味もあるが、古い英語で「海賊(かいぞく)」の意味がある。

pirate(パイレート=海賊)は、日本語で言えば、漢語(かんご)系の語で、roverは大和言葉(やまとことば)系の語である。

LAND ROVERは、言ってみれば、「陸の海賊」となる。それなら、「山賊」を意味するbanditがあり、ついで述べると、スズキのオートバイにBANDITがある。

「陸をさまようもの」と「陸の海賊」とをかけているのかもしれない。

なお、イングランド人は、roverという語が好きらしく、イングランドのフットボール=クラブには「ローヴァーズ」を名乗るものが少なくとも4つある。

Blackburn Rovers
Bristol Rovers
Doncaster Rovers
Tranmere Rovers

曾(かつ)て、7つの海を制覇(せいは)したことを、よほど誇りに思っているのだろう。

2013年12月31日火曜日

今日はNew Year's Eveを迎えるが、Eveの意味を訊(たず)ねられた。

一般に、Eveは「前夜祭」と訳されるが、たとえば、クリスマス=イヴにしても、ニュー=イヤーズ=イヴにしても、当時の夜に騒がないのは不思議だという。

日本語では、日の出から1日が始まり、翌日の日の出で、昨日が終わる。

ところが、欧米人の「1日」の観念は、違っている。

日没から始まり、翌日の日没で終わる。

つまり、「前夜祭」とはいうものの、じつは「当日の夜」なのである。

だから、Eveに大騒ぎする。

なお、英国では、午前0時を迎えるときに、「螢(ほたる)の光」の原曲でスコットランド民謡であるAuld Lang Syneが流れ、演奏が終了すると、そばにいる人の頬(ほほ)に口づけしてもかまわないという風習があるぞ。



2013年9月27日金曜日

国際環境NGOのグリーンピースと青豌豆(あおえんどう)のグリーンピースは発音が違うよ。

国際環境NGOのグリーンピースGreenpeaceの発音と青豌豆(あおえんどう)のグリーンピースgreen peasは発音が違う。以下、発音記号はジョーンズ式。

Greenpeace /gri:ˈnpi:ˌs/(グリーンピー

green peas /gri:ˈn pi:ˈz/(グリーンピー

本格派の知識だな。←このオチのためだけに書いてみた。

2013年8月5日月曜日

「ナイーブnaïve」は「傷つきやすい」という意味ではない。

「ナイーブnaïve /nai:v/」は「傷つきやすい」という意味ではなく、「素朴(そぼく)な」という意味である。素朴な人は傷つきやすい側面があるので、文脈(ぶんみゃく=コンテキスト)から「傷つきやすい」と思った人が多かった。


naïveはフランス語の形容詞naïf /naif/ の女性形である。フランス語では、-ai-は /ɛ/ (エ)と発音するので、/ai/ と読ませたいときには、--と綴(つづ)る。ことばにこだわる英米人はnaïveと綴るが、べつに、naiveとしてもよい。

「傷つきやすい」は、一般の英語ではvulnerable /vʌ'ln(ə)rəbl/である。

ナイーブという語の使い方や綴り方で、その人が一定レベル以上に英語ができるのかどうかがわかる。


2013年5月23日木曜日

Meganという人名の発音は「ミーガン」ではない。

 最近の英語の教科書では、以前なら登場しそうになかった名前が増えている。

 Meganものそのひとつである。

「ミーガン」/mí:gən/と読むなよと言ったら、うちの生徒の英語担当の教師がみな、「ミーガン」と読んでいるということが判明した。

 普通は「メガン」/még(ə)n/であり、たまに、「メーガン」あるいは「メィガン」/méigən/と読むことがあるくらいらしい(発音記号はジョーンズ式である)。

 Megan's Lawという法律が誤って「ミーガン法」と表記されているせいだろうか。また、Megan Foxという女優がいて、日本語では「ミーガン=フォックス」と表記されている。

 Meganはウェールズ語のMargalet(ギリシア語の「真珠」に由来)の愛称なんだけど、Megan Foxはアメリカ先住民とフランス人とアイルランド人の血をひいている。ウェールズは関係ないじゃん。こういうことを気にかけないのがアメリカ的なのかもしれない。

 そういえば、Kellyというファースト=ネームの少女が登場する教科書もあるが、Kellyはもともとアイルランド語の姓であって、ファースト=ネームではない。しかし、実際に、Kellyというファースト=ネームは増えている。

2013年4月28日日曜日

高校入試や大学入試から英語などの外国語の試験をなくそうという提案がなされたときの政府回答

 ずいぶんと昔のこと(40年以上前の話)だが、高校入試や大学入試から英語などの外国語の試験をなくしてはどうかという提案がなされた。

 日本では、ほとんどのことは日本語で学べるので、日本語しかできなくても学習に困らない。ビジネスなどで外国語が必要だとしても、通訳などを雇えば済む。ほとんどの日本人は外国語ができなくても困らない。語学の才能のある者と、将来、研究者となって最先端の論文を読む必要がある者だけが、外国語学習を選択すればよい。使えない語学力しか身につかないのであれば、それに費やした時間と努力をほかの勉強に振り分けたほうが効率がよいのではないか?

 それに対する政府の回答はつぎのようなものであった。

 世の中には、中学生・高校生に英語を教えるしかできない人間が多数、存在する。入学試験から英語を外し、語学を選択制にすると、そうした教師たちが失業する。すると、大失業問題となり、経済が混乱するので、それはできない。

2013年3月12日火曜日

国会でのブータン国王の演説で、unity in thought and actionを「知行合一(ちこうごういつ)」と訳した翻訳官の意図を勘繰(かんぐ)ってみた。

 2011年11月17日にシグミ=ケサル=ナムゲル=ワンチュク陛下が国会で演説を行なった際に、同時通訳では、unity in thought and actionを「知行合一(ちこうごういつ)」と陽明学(ようめいがく)の用語で訳していた。

 まず、該当(がいとう)する段落の英文と、翻訳官による訳文を併記する。

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 The world always identified Japan as a people of great honour, pride and discipline – a people with a proud tradition in history – who approach everything with tenacity, determination and a desire to excel – a people of unity in thought and action; of brotherhood and fraternity and unfailing strength and fortitude.
 世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さ併せ持つ国民であると認識してまいりました。 
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 ブータン王国で陽明学は普及(ふきゅう)しているとは思えない。主たる宗教はチベット仏教(ドック派・ニンマ派)である。敢(あ)えていうなら、日本の仏教で最も近いのは真言宗である。

 だから、「知行合一」を訳語として用いる必然性はないといえる。そもそも、unity in thought and actionなら、「考えと行ないの一致」くらいでもよさそうである。がちがちの直訳なら「思想と行動との点での統一性」である。「考えていることをきちんと実践する国民」という訳もありだ。「思想と行為の一致」と訳しても、時間の制約からして、それほど困りはしない。この演説では、同時通訳といっても、事前に原稿を受け取っているだろうから、訳文の前後の文言(もんごん)をいじって、調節できるはずである。


 陽明学とは、王陽明による儒教の解釈のひとつである。「知行合一」とは、知識と行為は一体とならねばならぬという考えであり、知ることは行なうことの始まりであり、行なうことは知ることの完成であるという考えである。この考えを突き詰めると、許せないことをした者は暗殺しなければならないとなる。危険な革命思想になるわけだ。

 日本における陽明学の代表的な人物として、「大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎が挙(あ)げられる。

 また、松下村塾(しょうかそんじゅく)の吉田松陰(よしだしょういん)もいる。彼は明治維新の指導者を育てた。

 2011年の時点で、どういうことがあったのかを考えると、アメリカ合衆国はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定(かんたいへいようせんりゃくてきけいざいれんけいきょうてい)Trans-Pacific Strategic Economic Partnership; Trans-Pacific Partnership)に日本が参加するのを想定していなかったのに、菅直人(かんなおと)が自らの発案で参加すると言い出した。

「第2の開国」と言い出したわけだ。「日米和親条約」や「日米修好通商条約」に次(つ)ぐものと考えたようだ。

 ところが、日本は、江戸時代の鎖国(さこく)のみならず、歴史上、70年から80年くらいの鎖国を繰り返している。平安時代の国風文化にしても、遣唐使を廃止し、鎖国しているから成立した文化である。

 TPPで「第2の開国」と言っているようでは日本の歴史がわかっていない。これまでにも何度も鎖国と開国を繰り返していたからだ。まあ、菅直人は東京工業大学で落第したような、理系でも文系でもないような人物だからな。謂(い)わば、無系人間だ。それに、日本人ではない血筋(ちすじ)も入っているそうだしね。

 さて、以上の経緯(いきさつ)から「知行合一」を考えてみよう。

 朝廷の勅許(ちょっきょ)もなしに、日米修好通商条約を結んだ彦根藩主(ひこねはんしゅ)にして大老(たいろう)である井伊直弼(いいなおすけ)を水戸藩(みとはん)・薩摩藩(さつまはん)の脱藩浪士(だっぱんろうし)たちが襲った。

 桜田門外の変である。

 水戸藩には水戸学があった。陽明学を取り入れた実学的な学問であった。

 井伊直弼のことが、とてもじゃないが許せるものではないとなれば、暗殺せざるをえない。水戸藩に迷惑がかからないように、脱藩(だっぱん)してから、桜田門外の変を起こした。

 こうしたことから、unity in thought and actionを「知行合一」と翻訳官が訳出したのを耳にして、その翻訳官はTPP反対論者(はんたいろんじゃ)で、菅直人に対して、「てめぇ、世が世なら、『桜田門外の変』のように暗殺されても仕方がないぞ」と遠回しに恫喝(どうかつ)しているように感じた。そんな皮肉を他国の国王による演説の訳に入れて、それが当時の与党・民主党に知られたら、その翻訳官は当時の政権によって、更迭(こうてつ)されたり、なんらかの処分を受ける可能性があると思い、ちょっと心配になったくらいである。

 しかし、杞憂(きゆう)であった。

 民主党の議員はみんな、教養がないので、だれもその皮肉に気づかなかった。

2013年1月6日日曜日

日本人のせいで製品・商品の仕様が変わった事例(その2):コンサイス=オックスフォード=ディクショナリー

 コンサイス=オックスフォード=ディクショナリーThe Concise Oxford Dictionaryは、以前、正式な名称はThe Concise Oxford Dictionary of Current Englishであった。現行のものは、The Concise Oxford English Dictionaryである。

 それはともかく、1979年から1990年までの間、英国首相であったマーガレット=サッチャーは、財政難の折(おり)から、大学への補助金を削減(さくげん)することにした。そうなると、大学が財政難に陥(おちい)る。

 自(みずか)ら資金を調達しなければならなくなったオックスフォード大学Oxford Universityは考えた。世界最大の大学出版局であるオックスフォード大学出版局の売り上げを伸ばし、その利益を大学運営にまわそう、と。

 まずは市場調査marketingである。すると、英国の旧・植民地であり、人口も頗(すこぶ)る多いインドを除けば、アジアでオックスフォード大学出版局の書籍を最も購入しているのが、日本だと判明した。

 そこで、オックスフォード大学出版局は、「日本人にやさしい」Japanese friendlyな書籍づくりに励(はげ)むことになる。

 日本は、大東亜戦争の敗戦により、第1外国語は強制的に英語となっている。となれば、英語辞典を「日本人にやさしい」ものにすればよい。

 その昔、英国の英語辞典には、そもそも発音記号が記載されていなかった。方言差(ほうげんさ)が激しく、「英語には標準語は存在しない」とする立場さえある。he(彼は)を「イー」と発音する者もいれば、often(しばしば)を「オフトゥン」と読む者もいるし、parent(親)を「パレント」と読む者もいる。スコットランド人の中には、bus(バス、乗り合い自動車)を、ドイツ人のように「ブス」と読む者もいる。ロンドンの南部やマンチェスターの連中は、myselfを「ミセルフ」という人が少なくいない。

 ちなみに、BBC(英国放送協会)のアナウンサーの発音でさえ、統一していない。ある者は、アッパー=ミドルの発音だし、ある者は、いかにもな上流階級のものである。BBCがアナウンサーの発音を統一しようと試みたことがあったが、不可能だと判断した。今は、BBCの容認発音Received Pronunciationとして、いくぶん、幅広く容認している。その容認発音でさえ、英国人の2%から3%しか使っていない。2011年の世界銀行による人口の推測値からすると、125万人から188万人にすぎない。だから、発音記号を掲載することに、それほどの利益はないのである。

 また、子音(しいん)の発音と強勢stress(所謂(いわゆる)、日本語での「アクセントaccent」だが、アクセントは強勢と抑揚intonationを合わせたもの)が正しければ、母音(ぼいん)の発音はどうでもよいとさえいえるのが英語である。したがって、精々(せいぜい)のところ、強勢の位置を示す記号がついているくらいでしかなかった。

 しかしながら、「日本人にやさしい」となると、話は別だ。発音記号を掲載したほうがよい。

 ところが、重大な事実が判明した。

 なんと、日本の英語の辞書では、当時の時点で、70年近く前の「ジョーンズ式発音記号」が主流だったのである(今でも日本では主流だが)。

「なんだと! 日本人は今でもジョーンズ式発音記号で英語を勉強しているのか!? あんな時代遅れな代物(しろもの)を! 微妙な方言の発音が表記できないではないか!」
「わが国の軍隊では、中世の武術を捨て去り、最新鋭の武装をしているのに、日本人は無駄に伝統を重んじる民族で、実際の戦闘では役に立たない弓道や剣道をいまだにやっている連中です[註:大東亜戦争では、ゲリラ戦で日本兵による弓矢で戦死したアメリカ兵が少なからずいる]。それに、火縄銃にしても、改良する能力があるにも拘(かか)わらず、戦国時代の仕様のままのものを江戸時代末期まで作り続けた民族です」
「ふーむ、だからといって、日本向けにジョーンズ式発音記号を採用するわけにはいかん。ジョーンズ式発音記号を採用すれば、世界中の笑いものになる」

 ということで、オックスフォード大学出版局は、すべてのページに国際音声記号International Phonetic Alphabet (IPA)の発音記号を印刷することにした。

 具体的には、こうだ。ひとつの発音記号を記載して、その横にその音声を含む単語を記載する。それを4ページに亙(わた)って、一覧を作成する。たとえば、「æ cat」というのから始め、4ページ分、作成するという具合。これを辞書の本文、つまり、単語とその意味を掲載しているすべてのページの余白の下に記載した。自分が調べた単語の発音記号がわからなければ、当該(とうがい)のページを含めた前後の4ページの下の余白を見れば、発音がわかるようにした。

 1990年発行の第8版でのことだ。

 オックスフォード大学といえば、英国首相を多数輩出した大学であるから、日本でいえば、東京大学に相当する。なお、ケンブリッジ大学はノーベル賞受賞者を多数輩出しているので、日本でいえば、京都大学に相当するといえる。東京大学も京都大学も、オックスフォードやケンブリッジと較べれば、どちらも、グレードは遥(はる)かに劣(おと)るが。

 東南アジアの親日国が東京大学出版会の書籍を多数購入しているからということで、東京大学出版会がその国の国民に適した仕様で書籍を刊行するようなことを、日本に対してオックスフォード大学出版局がやったということである。

 世界最大の大学出版局が日本に媚(こ)びたのだから、日本ってすごいなあ。

 但(ただ)し、辞書の売り上げは増えなかったようである。というのも、コンサイス=オックスフォード=ディクショナリーを使いこなせる日本人なら、大抵(たいてい)は国際音声記号を知っているからである。徒労(とろう)に終わったわけだ。

2012年11月27日火曜日

「綺麗?」と訊いた蒙古(モンゴル)出身力士の話が中学校の英語の教科書に掲載されているが、これはまずい。

 東京書籍発行の検定済み英語の教科書New Horizon English Course 3(ニューホライズン=イングリッシュ=コース3)のUnit 4(ユニット4)はLearn by Losing(負けることによって学ぶ→負けて憶える相撲かな)という題名である。
 英語の教科書なので、来日当初の蒙古(モンゴル)力士が間違えながらも、急速に日本語を習得したという話が書いてある。
 その中の挿話(そうわ=エピソード)のひとつとして、来日したての蒙古(モンゴル)出身力士が、浴衣(ゆかた)の着付けがきちんとしているかを先輩力士たちに確かめてもらうためにこう言ったという。

「綺麗(きれい)?」

 男子中学生たちは裏の意味を読み取らずに、そのまま文字通りに把(とら)えたのだが、ところが、女子中学生たちは違っていた。
 「綺麗?」などという言い回しを先に憶(おぼ)えたということから、来日早々に親方なり、谷町(たにまち)なり、先輩力士なりに、女性が接待をするいかがわしいお店(たとえば、キャバクラなど)に、その力士は連れて行かれているのだろうと、女子生徒たちはだれもが考えた。

 深読みをすると猥雑(わいざつ)な内容になるようなことが、検定を通過したのが不思議だが、おそらく、文部科学省の検定官も、男子中学生と同じ水準で表面的な意味しか汲(く)み取れなかったのであろう。

2009年9月26日土曜日

5フィート6インチ、139パウンド: 5' 6", 139 lbs

 イギリスではポンド=ヤード法で長さを測(はか)ったり、重さを量(はか)ったりするということを小学生に話し、私の場合、身長167cmから168cmなので、5フィート6インチ5 feet 6 inchesくらいだと述べたところ、138cmと145.5cmの小学生が自分は何フィート何インチになるのかと訊(たず)ねてきた。
 それで、138cmは4フィート7インチくらいで、145.5cmの場合は4フィート9インチくらいだと答えたうえで、4フィート7インチの場合は、省略して、four seven(フォー=セヴン)と言ったりするということをつけ加えた。
 小学生たちにとっては「なんとなく、かっこいい」らしい。
 ついでに、ふたりとも体重が約29kgなので、64パウンド64 poundsくらいだと教えてやった。
 これも、かっこいいと感じるらしい。

 おれって、身長が4フィート7インチで、体重は64パウンドなんだ。

 どこがかっこいいのか、わからんなあ。

2009年9月19日土曜日

中学生でも、映画などでよく耳にするのに、意味不明な英語

 中学生でも、映画などで耳にするのに、場合によっては、高校生になっても英語の教科書などでは目にしない英語がある。中学生や高校生の主に男子生徒に訊かれることがある。ここで紹介しよう。

イェッサー Yes, sir.
戦争物の映画などでよく耳にし、「わかりました」「了解しました」と言っているらしいが、中学生には綴(つづ)りがまったくわからない。
私自身、中学生のときに、yessarやyesserで調べてみたが、辞書には載っていないので、謎のことばだった。
sirは男性に対する改まった呼びかけ。

アイアイサー Aye-aye, sir.
「了解しました、上官殿」くらいの意味。
ayeはyesの意味。
Yes, sir.は陸軍で使うが、Aye-aye, sirは海軍で使う。海軍でもYes, sir.は使うが、その場合は単に上官の言ったことの意味を理解したにすぎず、行動はともなわないが、Aye-aye, sir.は行動が伴う。

ラジャー roger
もともとは無線用語で、「了解」の意味。
無線でしか外部と会話ができない戦闘機のパイロットなどが使う。
自信はないが、空軍で使うものだろう。

サンダーバーズ=アー=ゴゥ Thunderbirds are go.
goの文法上の位置づけがさっぱりわからないらしい。
賢明(けんめい)な高校生の中には、be toという熟語のtoが略されたものではないかと考えた者がいる。be toの意味には、義務・予定・運命・可能・意志があり、義務・予定の意味だと考えたそうだ。つまり、Thunderbirds are to go.の変形なのだと。なかなか、よい推測だと思うが、違っている。
ここでのgoは形容詞で、「準備完了して、順調で、異常なし」の意味で、Thunderbirds are go.は「サンダーバードは準備完了だ」ということで、つまりは「準備完了だから、発進しなさい」という意味が含まれる。

 

2009年8月16日日曜日

スープは飲むか、食べるか;けんちん汁は飲むか、食べるか

 スープは、英語では「食べる」to eatものだと思っている人が少なくないようだが、そうとはかぎらない。しかしながら、同時に、「食べる」to eatか、「飲む」to drinkかだけで考えているようでは、自然に話すことは身につかない。

『英語達人塾―極めるための独習法指南』(斎藤兆史(よしふみ)著・中公新書)に、つぎの記述がある。

 日本語と英語との差異ばかりが強調された結果、ある英語表現に関して間違った固定観念が生まれることがある。そのいい例がスープの「飲み方」。日本語ではこのとおり、味噌汁やスープは「飲む」と表現することが多い。だが、英語ではスープは「食べる」(eat)ものだと習った人が多いのではないか。オックスフォード大学出版局の『英語の疑問』(Questions of English, 1994)は、Do you eat soup or drink it?という質問に対し、実に明快に答えている。曰く、どちらも正解。コンソメのような薄いスープなら「飲む」だろうし、野菜スープのようなものなら「食べる」。外国人に「けんちん汁は食べるものか飲むものか?」と真顔で聞かれたら、どう答えたらいいだろうか?
(原文では「味噌汁」の「噌」は、旁(つくり)が「曾」となっている正字体)

 けんちん汁にかぎらず、特定の社会階層では、食べ物はおしなべて「いただく」ものなんだけど。

夕食で、けんちん汁をいただきました。

 外国人に日本語を教えるのであれば、「いただく」で教えるべきであって、「食べる」「飲む」は、論外であろう。下品である。さらには、「いただく」の思想的背景も教えるのがよいだろう。けんちん汁は「食べるものである」あるいは「飲むものである」と結論するようだと、次元の低い問題設定と次元の低い解答でしかないような気がしてならない。

 ついでにsoupについては、to drinkto eatのようなあからさまな表現は下品であり、「食べる」「飲む」のほかにもさまざまな意味のあるto haveを使うものなので、実際の会話では困ることはない。

I had vegetable soup.
野菜スープをいただきました。

For dinner, I had consommé.
夕食に、コンソメ=スープをいただきました。

 著者は英語圏で暮らしたことがないのかと思ったが、インディアナ大学やノッティンガム大学に留学している。もしかすると、研究ばかりしていて、地元の人とあまり話さなかったのかもしれない。

   

 これらの著書が、まっとうなことが書いてある説得力のあるものであることは保証する。著者はスープをいただくようなライフスタイルではないのかもしれないのだけれど。

2009年6月28日日曜日

tomorrowの語源

英語のtomorrowの語源について述べよう。

tomorrowは、ときには、to-morrowと綴(つづ)られる。

たとえば、『グレート=ギャツビー』(『華麗なるギャツビー』『大いなるギャツビー』と題名が訳されることもある)Great Gatbyの作者であるF. Scott Fitzgeraldは、to-morrowやto-dayと綴っている。

morrowは中期英語で「朝」morningの意味で、toは今のonくらいの意味。tomorrowは「朝に」on (the) morningくらいの意味だ。元来、複合語だったので、to-morrowとハイフンを入れる人もいたのだ。

「朝に」の意味だったのが、「翌朝に」の意味で用いられ、ひいては「翌日・明日」の意味になった。

このあたりは、古語の「つとめて」(早朝)が、後に「翌日の早朝」の意味も加わったのと事情は似ている。

2009年6月12日金曜日

学生のときに語学に関して、やった勉強

 大学生のときの勉強について手短に述べよう。
 第2外国語はフランス語を選択した。大学でする予定の勉強に関しては、本来は、ドイツ語を選択すべきであったのだが、そうすると、おそらくは、フランス語にはまったく手を出さないだろうと思ったので、あえてフランス語を第2外国語にしたが、この選択は結果としては間違っていなかった。とりわけイギリスの上流階級はフランス語とラテン語を学習しており、上流階級の人々がしたためる文章には、どこかしら「フランス語的」なものがあって、ロンドンの下町の労働者階級の英語とは質が違う。英語でなにかを読む場合にも、フランス語の素養はいくばくかは必要なのである。
 大学1年生のときには、夏休みなどを除けば、英語の原書などをだいたい200ページは読んでいた。必修の英語の授業のほかに、早稲田には「語学研究所」というものがって、学生はそこでハイレベルな英文を講読することができた(ただし、ふつうの学生は授業についていけないレベル)。
 フランス語の授業でのメインとなる教科書は、「京都大学フランス語教室」が編集したもので、週2コマの授業で使用する教科書としては最も難しいレベルだったらしい。この件については、知ろうと思ったことはなかったが、こんなことがきっかけで知るにいたった。
 同じクラスのフランス文学マニアの連中が、「こんなレベルの教科書をやっていて、大学2年生になったときに辞書さえ引けば原書でフランス語が読めるようになるのでしょうか? もし、そうでなければ、適切な参考書などを指示してほしい」と、とんでもないことを6月あたりに言い出しやがった。
 私のように、英語とドイツ語の文献を読むのがメインで、フランス語はあくまでも「余技(よぎ)」である者にとっては、こうした発言をきっかけに、膨大(ぼうだい)な量のプリントが配布されて、学習量が格段に増したら、ちょっと困ると思った。
 担当講師はちょっと困って、「これよりも難しい教科書はないんだが……」と答えていた。その流れから、フランス文学マニアくんたちの要望で、希望者を対象に、これだけをおさえておけば、夏休みに自力で簡単なフランス語のものが読めるように指導することになり、夏休み前(夏休み突入直後?)に、授業以外でその講師から接続法などを習い、アルベール=カミュAlbert Camusの『異邦人』L'étrangerを大学1年生の夏休みに、ペンギンブックスPenguin Booksの英訳と照らし合わせながら読んだ。
 なお、大学1年生のときのフランス語の学習方法に関して、一般的な参考書なども読みつつ、授業に関しては律儀に予習復習をし、さらに、イギリス人向けのフランス語の入門書や文法書も紐解いた。最初の1冊目がA First Frenchとかいうタイトルだったと思う。ほかにもそうしたたぐいのイギリス人向けのフラン語の参考書を使って、時間の空いたときに英文をフランス語に、仏文を英語に訳すという作業もしていた。
 ちなみに、1年生のときのフランス語の文法の教科書の仏文和訳・和文仏訳などについて、後期試験ように、答えを印刷したプリントを作成した。当時は、まだ、たいしたワープロすらなかったので、理工学部の大学院生のコンピュータを借りて、入力し、プリントアウトした。それを配布した。数年後、12月だか、1月だかに、大学に赴(おもむ)く用があって、足を運んだら、学生食堂で、自分が作成したプリントのコピーにコピーを重ねて、文字がいささかつぶれているプリントを必死で暗記してる学生を見かけ、ワープロで打ち直して、配布するやつがいないのかと呆(あき)れた。
 大学2年生になると、ドイツ語の学習も始めた。1年生のドイツ語の授業に勝手に出席して、授業を受けることにしたのだが、名簿に載っていない学生がいると、目ざとく見つけられた。そこで、「友人から先生の授業は非常に素晴らしいと聞いたので、ぜひともドイツ語を習いたいと思い、勝手に出席しました」と嘘をついたら、たいそう喜んでくれた。本当は、時間の都合がよかっただけだったが、名簿の末尾に名前まで書き込まれ、毎回、出席をとられ、おまけに、前期試験・後期試験も受けさせられた。そのクラスで(非公式)1番だった。まあ、ハンディキャップ戦だからな。
 英語を低くはないレベルまで勉強した上で、さらにフランス語の文法をひととおり学習してから、ドイツ語を習うと、「これは英語の〇〇に相当する」「これはフランス語の〇〇と一緒だ」という部分が多くなり、学習がきわめて容易になる。英語の学習にかかる時間とエネルギーが10とすれば、フランス語で同じレベルに達するには3くらいの時間・エネルギーで、その上でドイツ語を学習すると、1くらいの時間・エネルギーで済む。そのクラスでドイツ語を勉強していると、接続法なんかはすいすいと理解できるので、まるで自分の頭が格段によくなったという錯覚(さっかく)に陥(おちい)った。
 大学3年生への進級時に専門外国語を選ぶ。ドイツ語を専門外国語にしようとしたが、1・2年次に履修した外国語でなければ駄目という規約があり、専門外国語はフランス語にした。
 大学3年次に、フランス語の発音の訓練をなおざりにしていたので、発音を少しはよくするという目的のためだけに、1学期だか、夏休みだかに、日仏学院で、2番目にやさしいフランス語の授業を受けることにした。同じクラスに早稲田大学高等学院1年生の生徒がいたので、ちょっとびっくりした。
 その学院生は、おやじにこんなことを言われたそうだ。
 「数学と漢字の読み書きと英語とフランス語がちゃんとできれば、あとは、お前の好きなようにしてよい」
 なぜ、フランス語?
 学院生によると、もともと、最低限、数学と英語と漢字の読み書きができるだけで、世の中をわたっていけるというのが彼の親父の持論で、早稲田大学高等学院では高校1年生から第2外国語が学べる(あるいは、学ばなければならない)のだから、そのメリットも生かせ、ということで、「数学と漢字の読み書きと英語とフランス語がちゃんとできれば、あとは、お前の好きなようにしてよい」となったそうだ。フランス語を入れるのであれば、個人的には、ついで、物理も入れたいところだが。それから、漢文とかも。って、こんなことを言い出したら、すべてを学習しなければならなくなるな。
 また、3年生からは、日仏学院の「上級仏文和訳」という通信添削も始めた。ところが、5回目で10点満点をとってしまった。私の悪いところは、満点をとると、モチベーションが上がるのではなく、むしろ、モチベーションが完全になくなってしまうところである。高校時代の話でも書いたが、高校1年生のときに始めた通信添削を、満点しかとれないということで、やめている。ただ、勉強方法としては、じつは、正しい。満点がとれるようだと、修正ポイントが少ないから、学力向上という点では無駄が多くなる。もっとも、性格によっては、満点をとることで調子づいて勉学に励むということもあるから、一概(いちがい)にはどちらがよいとはいいがたいが。

2009年6月9日火曜日

大学入学までに英語に関して、やった勉強

 こんなことにそれほど需要があるとは思えないが、別のブログで高校生に質問されたので、ここで詳しく述べてみよう。
 まず、中学校のときには、学習塾には通わなかった。これは、親が教育熱心ではなかったからだろう。それと、和歌山県という田舎出身だからということもあるだろう。もちろん、そんな田舎にも、学習塾はあり、教育熱心な親が通わせている学習塾はあったが、今から考えると、そこで習った同級生の学力から考えると、ごく普通の学習塾だったらしい。田舎の基準で「ごく普通の学習塾」というのは、公立中学校・公立高校の教員のレベルを超えないということである。したがって、学習塾に通うというメリットはさほどなかったと思われる。せいぜいのところ、ちょっとだけ先取り学習をするという程度だったようだ。
 ほかのところのにも書いたことだが、とりわけ西日本の田舎の高校入試は、生温(なまぬる)い。地頭(じあたま)がよければ、塾通いしなくても、地域ナンバーワン校に進学できる。その程度に小学区制だったのだし、今でも変わらない。
 高校に進学してからは、自分が読みたいと思う書物が日本語よりも、英語・フランス語・ドイツ語に多かったので、まずは、英語の勉強に力を入れなければならないと考えた。同時に、自分の日本語の力にも不安があったので、教養を身につけるという点で、古文や漢文を、勉強しようと考えたというよりは、いろいろと読み込んでおいたほうがよいと考え、実際に、読み込んだ。
 現代の日本語しか、わかっていない人間は、所詮、現代の日本語も理解できていない。少なくとも、英語・古文・漢文はできないと駄目だと考えている。
 英語の文法の関しては、『総解英文法』『新自修英文典』という分厚い文法書を読んだ。
 中学3年生のころから、1000単語レベルとか、1500単語レベルとかの、いわゆるrewrite(リライト)あるいはretold(リトールド)と呼ばれる英語の本を読んでいた。有名な作品を一定の単語レベルで書き改め、かつ、短くしたものだ。中学生のときに読んだものでは、「イノック=アーデン」Enock ArdenというテニスンTennysonの物語詩の書き直したものや、『不思議の国のアリス』Alice's Adventure in Wonderland のrewriteが記憶に残っている。あまり心に残っているわけではないが、チャールズ=ディケンズCharles Dickensの作品のリライトはけっこう読んである。
 これは、「自然な英語」の習得という点では、よくない部分もあったと思う。使用できる単語に制限を加えているのだから、おのずと、不自然な英語になるのは仕方ない。
 リライトでないものとなると、オスカー=ワイルドOscar Wildeの「幸福な王子」The Happy Princeなどを原書で読んだが、童話だから日本の高校生でも簡単に読めると思いきや、苦労した。童話だからといって、なめてはいけないということを知った(これは、大学生で『星の王子さま』をフランス語で読もうとして、接続法をなめちゃいかんなと思ったのと同じだ)。
 Asahi Weeklyという学習用の英字新聞を中学3年生から読んでいたが、英語の難しさによって、星1つ(★)から、★3つだか、そのくらいに分類していたが、最初は、配達される毎週、日曜日の午前に星1つ(★)の記事から、読んでいた。そのとき、流行している英語の歌の歌詞が載っていたりして、けっこう、楽しかった。
 辞書を引きながら、なんとか読みこなせるようになったと思った高校2年生のときに、Asahi WeeklyからThe Japan Timesに変えたところ、あまりよくは理解できなかったので、これは3か月で講読するのを止めた(ちなみに、The Japan Timesのクロスワードパズルは、いまだに、クロスワードパズル用の専用辞書がなければ解けない)。
 高校1年生のときに、マイナーな通信添削を始めたが、満点しかとれないので、これはやる意味がないと思って止めた。高校2年生になってから、やる意味のある通信添削があると聞いて、Z会を始めた。途中で、数学はこれほどのレベルは必要ないだろうと考えて、参考書での学習だけにして、英語と国語を続けた。
 当時のZ会は、大学別のコースがあるわけでもなく、ただ、英語の長文が出題されて、「訳せ」、日本語の文章が出題されて、「訳せ」というものだった。これは、なかなか歯ごたえがあった。たとえば、経済学者が書いた普通の著書の一節を長めに抜粋して「訳せ」となっていて、経済学の一部くらいは知らないと、辞書と文法書では歯が立たないものだった。百科事典を紐解(ひもと)いたり、新書などで関係しそうなものを読み込んだ。
 なお、岩波新書や講談社のブルーバックスBLUE BACKSは中学2年生のときから日常的にというほどではないが、比較的よく読んでいた。中学1年生のときに読んだ『パズル・物理入門』が、最初に読んだブルーバックスだった。高校生になってからは、新書のたぐいは、だいたい年間100冊くらいは読んでいた。 
 英語の勉強でいちばん大事なのは、じつは、教養を身につけることだろう。そこに書かれている内容を理解する教養がなければ、辞書を引こうが、文法書を紐解(ひもと)こうが、理解できないからだ。
 自由英作文を書いて、イギリス人やオーストラリア人の教師に添削してもらっていた。「書く」という作業を通して、一般の英文を読む際に、なぜ、複数形なのか、なぜ、単数形なのか、なぜ、定冠詞のtheがつくのかなど、英文の細かい部分もわかるようになり、これはきわめて効果的だったと思う。
 聴き取りについては、ロックRock 'n' Rollなどの歌詞を憶えてから、その曲をかけっぱなしにしていたり、朗読テープのスクリプトを机の前に貼って、ひたすら、テープをかけ続けていた。これくらいのことしかしていない。聴き取りのために、必死で取り組むということはしなかった。
 英英辞典は、高校1年生のときから使っていた。最初は、研究社の『新英英辞典』を使っていたが、すぐにOxford Advanced Learner's Dictionary of Current Englishに換えた。4冊くらい引き潰(つぶ)している。今は、基本的に辞書は引かないのだが、訳語探しに、ときどき、『英辞郎』を、細かい語義・用法が気になるときには、Collins COBUILD English Dictionaryを使っている(特定分野の専門用語は除く)。
 なお、研究社の辞書や参考書は、どれもこれも使っていない。どうも、「英語しかできない人」が作っているようである。早慶以上の大学入試で研究社が間違っているときは、英語の知識が足りないからではなく、教養(理数系のみならず、人文系や社会学系の教養も含む)やフランス語・ラテン語の知識がないので、間違っていることが多いようだ。こうしたことは開拓社・旺文社などにも見受けられる。研究社の『英和中辞典』の例文には間違いが多すぎると、副島隆彦が『欠陥英和辞典の研究』(宝島社)で煽動的(せんどうてき)なかたちで指摘し、そのことで研究社が副島隆彦を訴えた。裁判の結果は宝島社が400万円を研究社に支払うことなった。批判の仕方が「過激すぎた」という理由によるものであり、批判内容そのものが否定されたわけではなかったようだ。その後、批判されないような間違いのない例文にしようとした研究社はOxford Advanced Learner's Dictionary of Current Englishから例文をパクリまくり、オックスフォード大学出版局から訴えられた。
 問題集に関しては、適当にいろいろとやったが、記憶に残っているのは、駿台文庫の『基本英文700選』『新・英文法頻出問題演習』『英文解釈教室』と、Z会の『英文解釈のトレーニング』『英作文のトレーニング』などをこなした。『英文解釈のトレーニング』には「基礎編」と「必修編」があったように記憶している。当時のZ会の英語と国語の問題集はすべてこなしたと思う。
 駿台予備学校講師だった伊藤和男の『新・英文法頻出問題演習』『英文解釈教室』は、本人が東京大学哲学科出身ということもあってか、向いている人には向いているが、そうでない人にはとっつきにくいらしい。知能指数が高くなく、かつ暗記に長けている人は、桐原書店の『即戦ゼミ大学入試英語頻出問題総演習』がよいようにも思うが、難関大学向きではない気がする。同時に、量が多すぎて、中堅大学受験にも適していない気もする。要するに、どこにも適していない気がする。いや、『即戦ゼミ大学入試英語頻出問題総演習』は上智大学・青山学院大学には適しているかもしれない。
 「英文解釈」に関しては、ほかにも何冊か読んだが、サイドリーダー代わりに読み散らした。ほかに、有名な文学作品の有名箇所や、有名な演説のさわりなどが載っていて、註などがついているものがよかったという気がする。英文解釈の参考書のほとんどは、大学の入試問題から採っているので、英語そのもの勉強には、ズレているところがないこともないと感じる。原書で数冊、読み込むほうがよい気がするが、そういうことは、普通の人の場合、大学に入ってからすることなのであろう。

 大学受験では、3科目の受験科目のうち、2科目で合格点がとれていたのが過去問5年分のうち、2年分あり、残りの3年分についても、2点から7点とれば、合格最低点だったので、早稲田大学第一文学部だけを受験したら、不合格になった。この経緯(いきさつ)については、PROFILE(お笑い編)を参照。
 予備校時代の英語の勉強は、予習中心主義だった。一般には復習中心でやるのが効率がよいとされるが、自分には合わなかった。しかし、他人には予習中心主義は勧めない。ほぼ完璧に予習ができるには、相当な学力が必要だからだ。
 毎週、教材のうちから長文をひとつ選んで、日本語訳を見ながらであれば暗唱できるようにしていた。週に1つくらいの割合で、1000単語くらいの文章を暗唱できるようにしていた。こういうのを聞くと、暗記力にすぐれていると思うかもしれないが、知識というものは、雪だるまと同じで、最初は少しずつだが、あとになればなるほど、唯だるまでいえば、急激に大きくなるものなので、たとえば、知識量が50倍あっても、勉強量は8倍くらいであったりする。それを知らないと、他人と自分の能力差を、実際以上に大きいと勘違いしてしまう。
 大学受験までにエリッヒ=フロムErich Frommの『自由からの逃走』Escape from Freedomを読み終えていた。エリッヒ=フロムはユダヤ系ドイツ人の精神分析学者で、移住先のアメリカ合衆国で英語で著(あらわ)したものなので、英文は読みやすいが、ところどころ、正しくはこう書いたほうがいいんじゃないかという部分がなくもない。本人による地の文は難しくないが、1箇所、むやみに難しいところがあって、そこは、引用だった。
 ほかに、英語で読んだものはつぎのとおり。
 ミシェル=フーコーMichel Foucaultというフランスの哲学者が、前半を自らが英文で、後半は本人がフランス語で書いたものを英訳した短い論文。
 ルートヴィッヒ=ヴィトゲンシュタインLudwig WittgensteinのThe Blue and Brown Booksを途中まで読んでみたが、なにが言いたいのか、わからなかった。中身がわかるようになったのは大学に進学してからのことだった。
 アーネスト=ヘミングウェイEarnest Hemingwayの『老人と海』The Old Man and the SeaとJ. D. サリンジャーJ. D. Salingerの『ライ麦畑でつかまえて』The Catcher in the Ryeは、よくわからないところは飛ばしながら読んだ。『老人と海』は話がわかったが、『ライ麦畑でつかまえて』は英語だけだと、わけがわからなくなり、読んだというよりは、活字を眺めただけだったといえる。邦訳を読んで、「こんな話だったのか」と思ったくらいだ。予備校の同じクラスに灘高校出身の生徒がいて、当時の灘高校では、高校2年生の夏休みの宿題で『老人と海』を原書で読むというのがあったと聞いて、びっくりした記憶がある。
 ジョージ=ミケシュGeorge Mikes(ハンガリー人なので、Mikesと書いて「ミケシュ」と発音する)のHow to be an Alien(外国人のなり方)は、大爆笑しながら読んだ。大学進学後には同じ著者によるHow to be Poorも読んだ。なお、How to be an Alienはつぎのサイトで無料で読めるよ。
 夏休みには、夏期講習を受けずに、ちょっくらイギリスにホームステイした。How to be an Alienに書いてあるとおりだったので、これまた大笑いだった。そこで、なんとはなしに、The Pitman English for Speakers of Other Languages (ESOL)のAdvanced Levelを受験したら、合格した。ブリティッシュ=カウンシルによればTOEIC換算990点以上に相当するとか、別のもので910点以上に相当するという資料を目にすることがあったが、当時の自分がTOEICを受験していても、850点くらいしかいかなかったと思う(今更(いまさら)、TOEICは受験できない心境である。満点をとってもうれしくなれない試験は受ける気がしない)。イギリス系の英語検定は、単なる暗記よりも教養などを重視するところがあるようで、長い自由英作文で、イギリス的な気の利いたことを書かないといけないようだったと思うし、今でもたぶんそうだろう。TOEICが満点でも不合格になるし、細かいアメリカ英語を知らなくても、英語での文章力があれば、合格できるものであるように思う。その一方で、実用英語検定1級取得者が多数、不合格になっていたから、それなりに難しい試験だったのだろうけど、試験の質が違うのだろう。TOEICは丸暗記しかできないタイプでも高得点ができるように感じており、事実、TOEICが高得点で、国連英検も受験しているが、イギリス系の英語検定は受検していない(あるいは受験したけど成績が振るわないので隠している)のが多いようだ。自分がPitmanのAdvanced Levelに合格しているのは、たぶん、大量に新書を読んでいたということと、普段から、日本語であれ、英語であれ、文章を書いていたからだろう。
 予備校に通っている間、夏休みを除けば、予備校の寮の近くにある英会話学校に週に1回通っていたが、講師のカナダ人(トロント大学卒業)は大麻不法所持で捕まって、強制送還になっていた。この講師に、ミシェル=フーコーMichel Foucaultの短い論文を見せたところ、「こんなのが読めるやつが不合格になるような大学が日本にあるのか!? 日本って、すごいな」と感心され、不合格になった早稲田大学よりも難しい大学は、ほかにも東京大学・京都大学・一橋大学・東京工業大学・東北大学などいろいろあると答えたら、さらに驚かれた。

 以上にしたためたことが、だれかの役に立つようなことがあるのか、疑問である。
 需要がなさそうだが、のちに、大学編も書こう。

2009年5月27日水曜日

大学入試でのThe Japan Timesからの出題:4月に掲載されたものが多く出題される。

 大学入試でジャパン=タイムズThe Japan Timesから出題されることがよくある。低レベルの大学だと、受験生の質が低いので、出題すると、受験生が読めないので、それなりに難関大学にかぎられるが、かといって、超難関大学では出題されることはないのだが。
 以前、ジャパン=タイムズに掲載された文章で、どの時期に掲載されたものがよく出題されるのかを調べたことがある。
 4月だった。
 4月に掲載された文章が最も多く出題されていた。
 理由を考えてみよう。
 大学ごとに異なるが、翌年度の入試委員が決まるのは、おそらく、入学試験が終わった3月であろう。すると、ジャパン=タイムズの文章が入試問題として機能しそうな大学の場合、入試委員になった教員は、3月からジャパン=タイムズを読み、入試問題に使えそうな文章を渉猟(しょうりょう)する。そして、入試に使えるものが見つかると、新たに長文読解の題材を求めることはない。
 その結果、ジャパン=タイムズにかぎっては、4月に掲載された文章が多く出題されている。


いちおう、こういうものが売られている。役に立つかどうかは不明。

2009年4月26日日曜日

英国のポケットサイズの辞書って、どう考えてもポケットに入らなさそうなんだが……

 英国のポケットサイズの辞書は、日本人の感覚からすると、ポケットに入るという感じがしない。大きすぎるのだ。私自身、以前はそう感じていた。
 事実、同じようなことを考える人は少なくない。Pocket Oxford English Dictionaryを見たHAL496の生徒が「どうしてこれが『ポケット』なんですか?」と訊いたりする。
 また、Amazon.co.jpで調べると、たとえば、Pocket Oxford-Duden German Dictionaryのカスタマーレビューにこんなことを書いている人がいる。

Pocketとは名ばかりで、書籍サイズはぜんぜんポケットサイズではありません(笑……いや、笑えません)。研究社の新英和中辞典とほぼ同じサイズでした。

 ポケットサイズというと、日本人は、一般に、背広やシャツの胸ポケットに入るものを思い浮かべるようだ。

 この疑問は、ある出来事をきっかけに、劇的に解消した。
 英国のバーバリー社(BURBERRY)のコートである。これをもらったのがきっかけで、英国のポケットサイズの謎が一挙に解決したのである。
 つまり、英国人が「ポケット」というとき、最初にイメージするポケットは、背広やシャツの胸ポケットではなく、あくまでもバーバリーのコートのポケットらしい。
 バーバリーのコートのポケットなら、余裕で入るのだ。

 日本でも似たようなことはあった。
 パスポートサイズだ。
 旧式のパスポートは、おそらく世界でいちばん大きかったようだ。少なくとも日本国旅券よりも小さいパスポートを持っている外国人を私は見たことがなかったし、やはり、大きすぎるという意見が多かったからこそ、現在のパスポートは、当時のものと較べて小さいものになったのだろう。
 ソニーがハンディカムの広告で、This is passport size.とテレビ広告で出演者に言わせていた(This is passport size.が正しい英語かどうは不明。カムはcamでcameraのこと)。1988年のことだ。おそらくは世界最大のパスポートを引き合いに出して、「パスポートサイズ」と呼ぶのに対して、詐欺(さぎ)に近いものを、当時、感じていた。ま、ソニーだからな。

自己紹介

自分の写真
和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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