2014年4月10日木曜日

「真田まつり」に関して笑ったこと

真田幸村(さなだゆきむら)の本当の名前は真田信繁(のぶしげ)である。講談や小説などで、真田幸村として有名になり、それが定着した。

真田幸村は、関ヶ原の戦いで石田三成(いしだみつなり)率(ひき)いる西軍、つまり豊臣方に、父とともに加勢(かせい)した。

幸村の兄は東軍に与(くみ)した。

親子で西軍と東軍にわかれるというのは怪訝(けげん)に思うかもしれないが、どちらが勝っても、真田家が残るようにとの配慮であった。

敗軍の将(しょう)ならば、切腹となるところだが、幸村は、地方への配流(はいりゅう)を命ぜられるにとどまった。

当初、和歌山県にある高野山(こうやさん)への配流を命ぜられたが、高野山は寒すぎるので勘弁(かんべん)してくださいと泣きを入れ、高野山の麓(ふもと)にある現在の和歌山県伊都郡(いとぐん)九度山町(くどやまちょう)への配流にしてもらった。

若い頃の私は、真田幸村ってのは、見事な「根性なし」だと思った。

しかしながら、最近になって、いつでも大坂城(おおさかじょう)[註:昔は「大城」と書いた]に迅速(じんそく)に出陣できるように、そういう演技をして、少しでも麓(ふもと)にある九度山に配流されるようにしたのかもしれないと思うようになった。

方広寺の鐘(かね)に「国(こっかあんこう)」の文字があることから、徳川家康が豊臣氏に難癖(なんくせ)をつけた。「家康」の文字を分断(ぶんだん)するものだとした。

幸村は、九度山を脱出して、大坂城に入城することとなる。

このときのエピソードで、つぎのものがある。

大坂城に向けて出発することになった。

九度山町や近隣にある現在の橋本市の庄屋(しょうや=わかりやすくいうと、村長さんみたいなもの)を集め、日頃のお礼に酒盛(さかも)りをしたいと申し出た。

現在の和歌山県橋本市と、大阪府との県境(けんざかい)、あるいは府境(ふざかい)には、紀見峠(きみとうげ)というところがある。紀見峠というは、伊国(きいのくに)がえるという意味である。

真田幸村が紀見峠を通過することがあれば、即座(そくざ)に徳川方(とくがわがた)に通報しなければならなかった。

そこで真田幸村は酒宴(しゅえん)を催(もよお)し、呼ばれた庄屋たちは酔っ払って、寝てしまった。いや、じつは、寝てしまったふりをしただけだった。幸村が大坂城に向かうのだと庄屋たちは判断していた。

そうすると、真田幸村が紀見峠を通過したことを徳川方に報告しなかったとしても、「いやはや、酔っ払って寝ていましたから」と言い訳ができる。

そうした阿吽(あうん)の呼吸で、今の橋本市の庄屋たちは真田幸村の大坂城入城を支援(しえん)した。

この話を読んだとき、中学校や高等学校の同級生で、所謂(いわゆる)、庄屋筋(しょうやすじ=庄屋の家柄(いえがら))の連中の先祖は、これを体験したのかと思うと、ちょっと羨(うらや)ましかったな。

和歌山県九度山町には、女人高野(にょにんこうや)と呼ばれる慈尊院(じそんいん)という寺と、真田幸村がいた真田庵(さなだあん)くらいしかない。

高野山は女人禁制(にょにんきんせい)という建前(たてまえ)になっていた。だから、女性は慈尊院(じそんいん)という九度山にある寺までしか行けなかった(ということになっている)。

実際は、豊臣秀吉が高野山焼き討ちを実施した際に、大量の女性と子どもがいたから、女人禁制は嘘(うそ)だった。

高野山の坊主(ぼうず)は、今でも、生臭坊主(なまぐさぼうず)ばかりだからな。

高野山焼き討ちのときの豊臣秀吉の決断が素晴らしい。

これほどまでにいる女(おんな)子どもをどうしましょうかと部下が秀吉に訊(たず)ねた。(女人禁制の)高野山に女(おんな)子どもはいないはずだから、いないはずの者を殺すわけにはいかんだろうと秀吉は言った。

九度山という地名は、慈尊院(じそんいん)に空海(くうかい)の母親がいて、空海はひと月に9度、母親に逢(あ)いに来たという故事(こじ)に由来(ゆらい)する。

空海がひと月に9度、慈尊院(じそんいん)にいる母親に逢(あ)いに来たということから「九度山」という地名になった。

慈尊院(じそんいん)と真田幸村くらいしか誇れるものがない九度山は、大東亜戦争の前から、ずっと「真田まつり」をやっていた。

しかしながら、真田氏の居城(きょじょう)である上田城は、長野県上田市にあり、どう考えても、こっちが「本家(ほんけ)」である。

ところが、九度山は、戦前から「真田まつり」をやっていた。長野県上田市が、真田まつりを35年くらい前に始めたときには、すでに和歌山県九度山町が「真田まつり」を戦前からずっとやっていたから、「上田真田まつり」とした。

本家が分家(ぶんけ)に遠慮(えんりょ)している状況は、なんだかおもしろい。いや、分家というよりは、よく考えると、九度山は流刑地(るけいち)にすぎないから、分家とすらいえない。

そんな九度山が、堂々と「真田まつり」をやりつづけているというのは、なんだか不思議な気がする。

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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