2013年7月22日月曜日

帝国陸軍航空本部長:寺本熊市(てらもとくまいち)「陸軍航空の父」と呼ばれた男

寺本熊市という和歌山県橋本市出身の男がいた。帝国陸軍航空本部長だった。「陸軍航空の父」と呼ばれている。

彼は大東亜戦争開戦にあたって、つぎのことばを残している。


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よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種(たね)を自動車でバラ撒(ま)いただけで、ほっておいても穀物(こくもつ)の出来(でき)る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄(まかな)ってきた国だ。国力を侮(あなど)ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様(てんしさま)にお仕(つか)えするだけだ。
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遺書を除けば、このことばくらいしか残っていない。もっと詳しく調べれば、いろいろとわかるのかもしれないけれども。

そして、終戦を迎えた1945年8月15日、玉音放送(ぎょくおんほうそう)の直後に自決(じけつ)している。

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8月15日、終戦の大詔(たいしょう=みことのり)を聞いた後、副官に「書きものをするから呼ぶまで来るな」と命じ、室内に太平洋地図と大東亜地図を二枚重ねて敷(し)いた上に、軍装を正して宮城(きゅうじょう)に向かって端座(たんざ=正坐(せいざ))し、古式(こしき)に則(のっと)り軍刀で腹を十文字にかき切り、次いで右頸動脈(みぎけいどうみゃく)を切った後、拳銃を口にくわえて発射。確実を期(き)した見事な最期(さいご)であった。
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陸軍中将・陸軍大臣であった阿南惟幾(あなんこれちか)は8月15日の午前5時半に介錯(かいしゃく)なしで割腹(かっぷく)し、苦しみながら、午前7時10分に絶命した。


一死(いっし)ヲ以(もっ)テ大罪(たいざい)ヲ謝(しゃ)シ奉(たてまつ)ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅(しんしゅうふめつ)ヲ確信シツツ



という遺書を残し、辞世(じせい)の句として


大君(たいくん)の深き恵(めぐみ)に浴(あ)みし身は 言ひ遺(の)こすへ[=べ]き片言(かたこと)もなし


という歌を添えた。


振り仮名なしだとこうだ。


一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ

大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすべき片言もなし


そのつぎに自決したのが、寺本熊市である。玉音放送直後に自決した。

3番目に自決したのが海軍中将である宇垣纏(うがきまとめ)である。宇垣纏は玉音放送後に、他の搭乗員とともに11機の彗星で特攻を敢行(かんこう)する。陣中日記(じんちゅうにっき)である『戦藻録(せんそうろく)』は書籍化され、英訳も出版されている。


阿南惟幾(あなんこれちか)は人柄がよかったなどの点から周囲から慕(した)われていた。そのせいか、さまざまな戦争映画に登場する。陸軍大臣の自決というのも一般の人の記憶に残る理由であろう。角田房子は『一死、大罪を謝す――陸軍大臣阿南惟幾』を著(あらわ)している。


宇垣纏(うがきまとめ)は玉音放送後に特攻に出撃し、『戦藻録(せんそうろく)』を残していたから知名度が高いのだろう。


ところが、寺本熊市はそういうことはしていない。不平不満を洩(も)らすことなく、淡々と任務を遂行(すいこう)したようである。このような人物は次第(しだい)に忘れされていくようだ。

遺書は「天皇陛下と多くの戦死者にお詫(わ)びし割腹自決す」であった。


従三位功三級勲一等旭日大綬章。享年(きょうねん)57歳。←享年は数え年で表記するものです、為念(ねんのため)。
























寺本熊市の経歴について簡単に記そう。

寺本熊市は、和歌山県橋本市隅田町垂井(すだちょうたるい)にある隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)の宮司(ぐうじ)・寺本政吉の三男として橋本市隅田町平野に生まれる。

隅田八幡神社は京都府の岩清水(いわしみず)神社から勧請(かんじょう)[=分霊を他の神社に移すこと]された神社であり、高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)が弘仁(こうにん)7年(816年)に創建(そうけん)されたことに対して、神社勢力が対抗して貞観(じょうがん)元年(859年)に創建したものである。金剛峯寺と隅田八幡神社が紀ノ川を挟んで対峙(たいじ)しているのは、そういうわけである。なお、現在の隅田八幡神社の宮司・寺本嘉幸は寺本熊市の甥(おい)である。

奈良県にある旧制五條中学校から仙台陸軍地方幼年学校・中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(第22期)・陸軍大学校(第33期)を卒業。飛行第8戦隊長や飛行第16戦隊長などを歴任し、航空本部長として終戦を迎え、自決する。最終階級は陸軍中将である。

和歌山県橋本市出身なら、和歌山県伊都郡高野口町にある旧制伊都(いと)中学校に進学しそうなものだが、寺本熊市の出身地は奈良県との県境の近くにあり、旧制五條中学校のほうが近かったのである。

寺本熊市のことを戦後生まれでは知らない者が地元でさえも多い。軍人として余計なことは言わず、淡々と任務をこなし、悪い意味での目立ったことはしていないのも一因ではあろう。事実、目立つことをしなかったせいか、終戦後に自決した軍人一覧のあるサイトをいくつか、訪(おとず)れてみたが、寺本熊市を一覧から洩(も)らしているのがあったくらいである。

また、旧制五條中学校は、現在、奈良県立五條高等学校であるが、そこのウェブサイトやWikipediaにも、著名なOBとして掲載されていない。「陸軍航空の父」である陸軍航空本部長が一顧(いっこ)だにされていないのである。

和歌山県は1980年代の途中までは、日本教職員組合(日教組:にっきょうそ)の力が強かったが、80年代に日教組とは仲違(なかたが)いした。しかしながら、今でも、共産党系の全日本教職員組合(全教(ぜんきょう))の力は弱くない。奈良県も全教のちからが強いようである。

こうした組織の影響で、戦後の教育を受けた者は、寺本熊市のことを知らないのではないのではないだろうか?

なお、「寺本熊市陸軍中将之碑」は和歌山県橋本市隅田町平野56-2にある冨岡エッグファームのすぐ近くにある。寺本熊市の妻のアイは、冨岡重藏の伯母とのことで、冨岡エッグファームの冨岡幸男と関係があるのではないかと思うが、確認していない。

Links
写真で綴る陸軍中将寺本熊市の石碑
世紀の自決/寺本熊市
歴史が眠る多磨霊園
↓「写真で綴る陸軍中将寺本熊市の石碑」の中国語版(簡体字)
日本陆军航空兵之父-寺本熊市的石碑。






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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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