親戚(しんせき)に宗教団体に属している人がいる。そうした親戚のうちで、母方の叔母(おば)に、ある宗教団体の幹部昇格試験を解かされたことがあった。
満点だった。
是非とも入信するように勧められた。「掃除機やったら、すぐに幹部になれるんよ」と言う。
しかしながら、その宗教に関する信仰心がまったくない人間が入信するのはおかしいと思ったので、断った。
その直後、今度は、父方の伯母(おば)が幹部昇進試験が満点だったことを聞きつけ、入信を勧めてきた。信仰心がないから、無理だと伝えた。
母方の叔母(おば)にしても、父方の伯母(おば)にしても、「もったいない」と言った。熱心に入信を勧められた。でも、断った。
信心していない人間が簡単に満点がとれるような幹部昇格試験を実施している宗教は信用できない。
その試験は、鎌倉仏教に関して、「倫理社会」(今なら「倫理」)の教科書や資料集に書いてあることを知悉(ちしつ)しており、古文と漢文がすらすらと読めれば、問題なく満点がとれるような代物(しろもの)であった。
宗教に走る人っていうのは、勉強ができなくて、世の中の仕組みが理解できなくて、その結果、自分が、なぜ、貧しいのか、なぜ、人生で報われないのかがわからない人が多いような印象を抱いている。そうした人々が、どうしようもなくなって宗教に頼るようになるのだ、と。
そんな人たちが頼った宗教団体で、幹部に昇格しようと思えば、勉強ができなくてはならない。
勉強ができなくて、頭がよくなくて、辛酸(しんさん)を舐(な)めた人々が、その組織で出世しようと思っても、勉強ができないから出世できない。
なんだかなぁっていう気がしてくる。
それって、救済するのではなく、止(とど)めを刺(さ)すことになっているのではないだろうか。魂の救済を求めて、宗教団体に加入したのに、どうしたって、その組織の底辺の構成員でしかないということを思い知らされるのだから。
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