2013年5月12日日曜日

火縄銃と螺子(ネジ)

 火縄銃(ひなわじゅう)は1543年に種子島に伝来(でんらい)した。それ以前にも火縄銃は支那(しな)から伝来していたが、劣悪な製品なので、普及(ふきゅう)することはなかった。

 火縄銃とともに伝来したのが、螺子(ネジ)であった。

 ポルトガル商人の乗った明船(みんせん)が種子島(たねがしま)に漂着した際に、火縄銃の威力(いりょく)に驚嘆(きょうたん)した種子島時尭(たねがしまときたか)は、2000両の大金を以(もっ)て、火縄銃を2挺(てい)を購入した。種子島時尭は、鍛冶職人(かじしょくにん)八板金兵衛(やいたきんべえ)に、複製を作ることを命じる。

 そして、日本人は螺子(ネジ)というものを初めて目にすることとなる。

 八板金兵衛は、忠実に螺子(ネジ)を再現し、火縄銃を複製した。

 その後、各地で火縄銃が作られることになり、戦国末期には50万挺という世界最大の銃保有国になる。アジア諸国の中で、日本が欧米の殖民地(しょくみんち)にならなかった理由は、軍事大国であったからだと考える人は少なくない。

 1543年に日本人は螺子(ネジ)と出逢ったのだけれども、明治維新(1867年)以降にならなければ、日本人は螺子(ネジ)を火縄銃以外に使用することがなかった。

 300年以上もの間、螺子(ネジ)を火縄銃以外に利用しなかったのが不思議なんだけど、日本人は、法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(ごじゅうのとう)を釘1本も使わないで造り上げるような民族だから、螺子(ネジ)なんてものは、鎖国政策(さこくせいさく)によって、のんびりと暮らしている間は、必要なかったのだろうな。

 明治維新以降、富国強兵を進めるにあたり、効率を重視しなければならなくなると、螺子(ネジ)を使用するようになる。

 螺子(ネジ)を必要としない社会は、のんびりとした平和なものなのかもしれない。

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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