2009年8月7日金曜日

日本が欧米の殖民地(しょくみんち)にならなかった理由について考えてみた。(お笑い編)


日本が殖民地にならなかった理由(ちょっと真面目な戦国時代編)


 日本が欧米の植民地にならなかった理由について、「資源のない国だったから」というものが、少なくとも、教育現場では圧倒的多数意見であるようだ。
 まず、ミャンマー(ビルマ)は、見るべき資源がないにも拘(かか)わらず、植民地化された。「資源のない国だから」は充分な理由にはならないだろう。
 尤(もっと)も、資源がないから、フランスは鉄道を敷設(ふせつ)するなど、インフラinfrastructureを整えることはなかった。ほかの元・植民地と較べて経済の発展が遅れているのは、独立した時点での道路や鉄道が充分ではなかったことが理由とされている。

 イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルは、日本人は民度が高いから、殖民地にはできないだろうという主旨の書簡を本国に送りつけている。
 民度が高かったから殖民地にされなかったというのは、少しはあるかもしれない。
 話は逸(そ)れるけれど、日本を殖民地にできるかどうかの可能性を本国に報告するような人物が属していた団体であるイエズス会が運営するような大学・高等学校・中学校(上智大学・上智短期大学・エリザベト音楽大学・栄光学園・広島学院・六甲学院・泰星中学校・泰星高等学校)に進学したいと考える人間の気が知れないと私は思っている。

 また、戦国時代末期には日本には50万挺(てい)の火縄銃があった。世界一の銃大国であり、軍事大国であった。兵農分離(へいのうぶんり)が進んでいない時点では、農民も戦闘に加わった。その結果、成年男子の8割は軍事に関わった。そんな軍事大国を相手に殖民地化(しょくみんちか)を試みる馬鹿はいないだろう。

 さて、日本が明治維新後、欧米の殖民地にならなかった理由である。「切腹」が鍵となると私は考えている。

 神戸事件というものがある。酒鬼薔薇と名乗る神戸の中学生が小学生の首を切ったものも「神戸事件」と呼ばれることがあるが、それではない。
 神戸事件とは、1868年、神戸において、備前藩兵が隊列を横切ったフランス水兵を負傷させ、明治政府初の外交問題となった事件だ。備前藩砲術隊長・瀧善三郎が切腹することで、解決をみた。
 瀧善三郎の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず、一大センセーションを捲き起こした。検視にあたった英国駐日公使館書記官ミットフォードAlgernon Freeman-Mitfordが瀧善三郎の切腹の様子を本国に伝え、『イラストレイティッド=ロンドン=ニューズ』(無理やり訳すと『挿絵(さしえ)つき倫敦(ろんどん)新聞』)が報じた。
 ミットフォードは『旧日本の物語』Tales of Old Japanで、瀧の切腹の模様を描写しているので、孫引きになるが、引用しよう。

……軈(やが)て「介錯(かいしゃく)」を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役の方へ進み出た。二人は検視役に向かって丁重に辞儀(じぎ)をして、次いで外国人検視役の方に近づいて、同様に一段と丁重(ていちょう)な挨拶(あいさつ)をした。どちらの検視役も厳(おごそ)かな答礼で応(こた)えた。

 そこで、この咎人(とがびと)はゆっくりと威風(いふう)辺りを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇に二度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈(もうせん)の上に正座した。「介錯」は彼の左側にうずくまった。三人の付き添いの役人の裡、一人が神仏に献げる時に用いる台──三宝(さんぽう)を持って前に進み出た。その三宝には白紙で包まれた「脇差(わきざし)」が載せられている。(中略)長さは凡(およ)そ九寸五分、切っ先と刃はカミソリの様に鋭い。役人はこの三宝を咎人に手渡し、一礼した。善三郎は三宝を両手で頭の高さに迄(まで)捧(ささ)げ、恭(うやうや)しく受取って、自分の前へ置いた。再度、丁重な辞儀を繰り返した後、善三郎は次の様に口上を述べた。其の声には痛ましい告白をする人から予想される程度の感情の高ぶりと躊躇(ちゅうちょ)が顕(あらわ)れてはいたが、その顔色や物腰には少しもその様な様子が見受けられなかった。

「拙者(せっしゃ)は唯一人、無分別にも誤って神戸に於(お)いて外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度撃ちかけしめ候(そうろう)。拙者(せっしゃ)今、その罪を負いて切腹致(いた)す。各々方(おのおのがた)には検視の御役目御苦労に存知候(ぞんじそうろう)。」

 再度の一礼の後、善三郎は麻の裃(かみしも)を帯(おび)辺(あた)り迄(まで)脱ぎ下げ、上半身を露(あらわ)にした。慣例通り、注意深く彼はその袖(そで)を膝(ひざ)の下へ敷(し)き込み、後方へ倒れない様(よう)にした。身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされてきたからである。

 善三郎はおもむろに、しっかりとした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。一(ひ)と時(とき)彼はそれをさもいとおしい物であるかの様に眺めた。最期(さいご)の時の為(ため)に、彼は暫(しばら)くの間、考えを集中している様に見えた。
 そして、善三郎はその短刀で左の腹下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えてやや上方へ切り上げた。この凄(すさ)まじい苦痛に満ちた動作を行う間中、彼は顔の筋(すじ)一つも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を預(あず)け、首を差し出した。その時初めて苦痛の表情が彼の顔をよぎった。だが、声はなかった。

 その瞬間、それ迄(まで)善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大(さいだい)漏(も)らさず見つめていた「介錯」が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。一閃(いっせん)、重々しく辺りの空気を引き裂(さ)くような音、どうとばかりに倒れる物体。太刀(たち)の一撃で、忽(たちま)ち首と胴体は切り離れた。

 室内寂(じゃく)として声なく、只(ただ)我々の目前に有る最早(もはや)生命を失った肉塊(にくかい)から、どくどくと流れる血潮の恐ろしげな音が聞こえるばかりであった。一瞬前迄(いっしゅんまえまで)の勇者にして礼儀正しい偉丈夫(いじょうぶ)は斯(か)くも無残に変わり果てたのだ。それは見るも恐ろしい光景であった。

「介錯」は低く一礼し、予(あらかじ)め用意された白紙で刀を拭(ぬぐ)い、切腹の座から引き下がった。血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、厳(おごそ)かに持ち去られた。

 こうしたことを見せつけられたヨーロッパ人は、ちょっとビビっただろう。
 ちょっとしたことをきっかけにして、いわば難癖をつけて、少しでも刃向(はむ)かえば、それを口実に、神戸を香港や澳門(マカオ)のような租借地(そしゃくち)となっていた可能性がある。そればかりか、殖民地化されていた可能性もある。
 それを防いだのが、瀧善三郎正信なのだ。

 ところが、欧米列強の日本殖民地化計画は終わることはなかった。
 堺事件だ。
 これは、土佐藩士など29人が11人のフランス人を殺傷・溺死させた事件だ。これに対して、フランス公使レオン=ロッシュは20人の切腹を要求した。
 森鷗外の『堺事件』には以下の記述がある。

 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮(しずま)った。箕浦は黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に小袴(こばかま)を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺(さんじゃく)隔(へだ)てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽(たちま)ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好(よ)く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創(きず)に挿し込んで大網(だいもう)を掴(つか)んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。
 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位(さんちょうくらい)響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。
 次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同(うじあつ)。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕(ぼたん)を一つ一つ丁寧(ていねい)にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩(ゆるや)かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌(あわ)てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。
 次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立った大男である。先ず両手で腹を二三度撫(な)でた。それから刀を取って、右手で左の脇腹を突き刺し、左手(ゆんで)で刀背(とうはい)を押して切り下げ、右手に左手を添えて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至った時、更に左手で刀背を押して切り上げた。それから刀を座右に置いて、両手を張って、「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損(しそん)じて、七太刀目に首を墜(おと)した。切腹の刀の運びがするすると渋滞なく、手際の最も立派であったのは、この大石である。
 これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので腸(はらわた)が創口(きずぐち)から溢(あふ)れて出た。

 こうした凄惨(せいさん)な場面に遭遇(そうぐう)したフランス人の心持ちはどんなものだったんだろうか? 
 11人の切腹が終わった時点で、立ち会っていたフランス軍艦長のプティ=トゥアールPetit Thouarは中止を要請している。本人の日記によれば、土佐藩士への同情を感じつつも、このままでは土佐藩士が英雄視され、逆効果であると考えて、中止させたという。また、一説には、日も暮れた帰途に襲撃されることを怖れたからともされている。

 現代の日本人が、仮に、逆の立場だったら、どうだろうか? そんなことはないだろうが、あくまでも、仮定として、殖民地化のために、いろいろと嫌がらせをしたのに、刃向かうことなく、従容(しょうよう)として、それも切腹という作法で、死に赴(おもむ)かれたら、これは怖(おそ)ろしいだろう。
 少なくとも、この連中が本気になったら、どうなるかわからないと考えるだろう。
 こんなところに、日本が殖民地されずに済んだ大きな理由があると考えているのだが、どうだろうか?

追記:お笑いネタのつもりで書いたところ、本気で反論しているのをウェブ上で見つけたので、いずれ、真面目なものをしたためたいと考えている。

日本が殖民地にならなかった理由(ちょっと真面目な戦国時代編)

  


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和歌山県橋本市出身。世界文化遺産である高野山の麓です。
和歌山県立橋本高等学校を経て、早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。
B型Rh+。天秤座。家紋は「丸に九枚笹」。
大叔父(おおおじ)は精鋭集団である帝国陸軍航空審査部所属で、「キ61(きろくいち)の神様」と呼ばれた坂井雅夫少尉。キ61は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」のことである。

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