ストラディヴァリウスというのは、アントニオ=ストラディヴァリ Antonio Stradivariが製作したヴァイオリンなどのことだ。2億円、3億円で取り引きされている。およそ4億円で落札されたことがそうだ。
自分は、どちらかというと、権力志向がなく、権威に阿(おもね)るのは厭(いや)だと感じるタイプなので、そんな自分がストラディヴァリウスの音色をたいそう気に入っていたことに驚きつつも、同時に、それほど、ストラディヴァリウスはすごいのかとも感心した。
演奏は好きなんだけど、どうしても「すんごく好き」というところまではいかなくて、「ふつうに好き」なヴァイオリニストは、ことごとく、グァルネリ=デル=ジュス Garneri del Gesu の使用者だった。
もちろん、ストラディヴァリウスを使っていても、演奏が好きなれないと、「ふつうに好き」にもならないし、演奏が好きでない上に、グァルネリ=デル=ジュスを使っている人は、どうしても好きにはなれないでいる(ということに、「ヴァイオリンの銘器と演奏者リスト」を見ていて気がついたわけだ)。
生存する日本一のヴァイオリニストは五嶋みどりでまちがいないと思し、演奏も素晴らしいと思っているのだけれども、「すんごく好き」というわけではなく、「すんごく好き」と「ふつうに好き」の中間くらいなんだ。これが不思議だった。謎が解けた。五嶋みどりは、ストラディヴァリウスとグァルネリ=デル=ジュスの両方を所有したのだ。つまり、グァルネリ=デル=ジュスでの演奏のときは、たぶん「ふつうに好き」で、ストラディバリウスでの演奏のときは、「すんごく好き」で、全体としては、「すんごく好き」の一歩手前になってしまうのだろう。
以前、ストラディヴァリウスが高く評価されている理由を述べているものを読んだ。それによれば、こういうことらしい。
ヴァイオリンは、元来、室内楽を念頭において製作されていたので、音量は重視されておらず、音色優先で製作していた。その後、市民革命により、王侯貴族を愉しませる室内楽が下火になり、劇場で多数の聴衆を対象に演奏するようになると、アンドレア=アマティ Andrea Amati ヤコプ=シュタイナー Jacob Stainer (Steinerではない)の製作するヴァイオリンは、音量の小ささゆえに評価を下げ、ストラディヴァリウスの評価が相対的に高まったにすぎない。ちなみに、当時、シュタイナーのヴァイオリンはストラディヴァリウスの4倍の値段で取り引きされていた。
また、グァルネリは、音に関係しない部分、たとえば、渦巻きの部分などは手を抜いているそうだが、ストラディバリは職人気質(しょくにんかたぎ)からか、どんな部分でも手を抜くことがなく、長年の使用に耐える楽器を結果的に製作した。「200年以上経っても使える楽器=すごい楽器」という認識が得られたというわけだ。
つまり、「音が大きい」ことと、丁寧に作られているので「長年、使用できる」の2点から、評価が高くなっているだけで、本当のところは、「単なる素晴らしい楽器」にすぎないという。
以上の解説に、納得していた。
この説明が正しければ、私は、なぜ、ストラディヴァリウス使用の演奏者ばかりをえらく気に入るのであろうか? これに対する答えは見つからない。
自分は音にあまりこだわらないので、オーディオにはたいしたものを使っていない。いちばん音質がましなのが、ボーズBoseのスピーカーとかではなく、並レベルのヘッドフォンなのである。旋律さえわかればよいと子どものころから思っていた。そんな環境でしか音楽を聴いていないのに、以上のように、ヴァイオリニストの嗜好が、楽器によって截然(せつぜん)とわけられてしまっているのも不思議である。こんな環境でさえも、感じ取れるほどの違いが、両者のヴァイオリンにはあるのであろうか? それに、弓の毛や弦によって、音もいくらかは変わるはずなのに、どうして、こうもくっきりとわかれてしまったのであろうか?
ま、楽器の音色なんてものは、あくまでも個人的な嗜好(しこう)にすぎないし、グァルネリの音のほうが好きだっていう人もいるし、そこに異論を挟むつもりはない。
もっとも、演奏と楽器の組み合わせで、「すんごく好き」と「ふつうに好き」と「好きになれない」が、機械的に決まってしまうのは、ちょっと厭だなあ。なんていうか、自分では、いろいろなものが好きだと思っていたら、見事にひとつの型に嵌(は)まっていたんだから。
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