HAL496では、たんなる知識だけではなく、その大学特有の傾向や規則に基づいて、未知の問題に出合ったときの対処法をも指導している。
端的に述べるならば、上智大学の日本史の正解が、進歩史観に強く基づいているのである。したがって、この点に注意するだけで、大幅に正解率を上げることができる。
進歩史観とはなにか、説明しておこう。
進歩史観とは、人類が最終的な形態(たいていは理想的な形態)へと進んでいくプロセスだとみなす歴史観である。単純に述べると、歴史の過程において、世界はどんどんよい方向に進んでいき、最後には理想的な状態になるものと考える歴史観である。いずれは、素晴らしい状態に到達するのであるから、その過程である現在を肯定的に把(とら)えるむきがあるようだ。なんともはや、おめでたい考え方であると思わなくもないが、同時に、高度経済成長期にはそんなふうに歴史を感じていた日本人が少なくはなかったのではないかと想像している。
ドイツ観念論の哲学者ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの弁証法も広い意味で進歩史観とみなせなくもない(むちゃを言うなというつっこみがありそう)。ヘーゲルによれば、「正=反=合」をくり返すことで、無限に世界は絶対へと近づいていくらしい。絶対知や絶対的概念にいずれはおもむくことになっているらしい。
ヘーゲルの影響下にあるマルクスKarl Marxの唯物史観も、同じく、進歩史観である。人類の歴史は、原始共産制社会(あるいは氏族制社会)から始まり、古代奴隷制社会→中世封建制社会→近代資本主義社会→社会主義・共産主義社会へと、移行すると考えていた。それが実際に理想的な社会かどうかはともかく、マルクスが理想的だと考える共産主義社会へと歴史は向かうと信じていたらしい。
さて、上智大学の日本史の問題で、生徒がわからないという問題をチェックして、消去法で残った選択肢から正解となる選択肢を抽出すると、進歩史観に縛られている人間が作成したものだと仮定して、選択肢を選ぶと、相当な確率で正解となった。つまり、世の中が「よくなる方向」に向かっているとすれば、どれを選べばよいかを想像して選択肢を選ぶだけで、未知の問題の正解率が大幅に上昇するのである。
どう考えても、進歩史観に拘泥(こうでい)しているとしかいえない具合なのである。こんな単純な問題作成でよいのだろうかという疑問が生じる。また、どうして、そこまで単純なことができるのであろうか?
上智大学はいうまでもなく、ミッション系大学である。ミッション系大学の「ミッション」はmissionであり、missionはこの場合、「宗教の布教・伝道団体」の意味である。まあ、要するに、ミッション系とは、教育活動を通じてキリスト教を身近なものと感じさせて、徐々に他国・他文化・他宗教の圏内で布教活動を行なうキリスト教を伝道する団体のことである。
結論から述べると、キリスト教の思想そのものが「進歩史観」にほかならないから、みょうに進歩史観に拘泥しているとしか思えない出題をしてしまうらしいのである。たぶん、出題者は意識していないだろうけど。
キリスト教は、創世記から始まって最終的には「永遠の王国」へと行き着くという歴史観であるという点で、進歩史観にほかならない。
マルクスは「宗教は阿片である」としてキリスト教を批判したが、進歩史観に拘泥しているという点で、同じ枠組みでしか、ものを考えていないとして、ハイデゲリアン(Heideggerianハイデガー主義者)はマルクス主義を批判したりする場合もあるようだ。
それはともかく、上智大学の教員全員がキリスト教徒であるとはかぎらないが、日本史の問題に関するかぎりは、いかにもミッション系だなと思わせる出題なのである。
このような指摘を受けると、上智大学が出題傾向を変えてくるのではないかと考える場合もあるかと思うが、出題傾向を変えることはないだろう。キリスト教徒であれば素朴な進歩史観の持ち主であるし、キリスト教徒でなくとも、素朴な進歩史観の持ち主であれば、キリスト教的価値観の中で勉学に励むのに適しているからだ。ただし、同時に、素朴すぎるものの考え方であるがゆえに、上智大学は偏差値の高さのわりに、男子学生の就職状況が決してよくはないのではないかと考えている。
0 件のコメント:
コメントを投稿